関川夏央『昭和三十年代演習』書評

2013-07-12 vendredi

関川さんの新刊『昭和三十年代演習』(岩波書店)の書評をある新聞に寄せた。
お読みでない方が多いと思うので、採録する。


明治生まれの私の父は雪が降ると必ず「降る雪や明治は遠くなりにけり」と小さな声で詠じた。自分の生まれた時代が遠ざかってゆくことへの感懐がどんなものだか子どもの私にはわからなかったが、今は何となくわかる。
関川さんは私と同年である。昭和が遠くなり、そのときの「空気」を知らない人々に戦後の日本社会のさまを説明しなければならないときにしばしば(私同様に)深い徒労感を覚えて、小さな声で「昭和は遠くなりにけり」と嘆じているはずである。
けれども、それに耐えて、関川さんは作家的使命感によって昭和を回想し、証言する心にしみる文章をたくさん書いた。『家族の昭和』『昭和が明るかった頃』『昭和時代回想』など、どれも戦後世代は胸の詰まる思いをせずには読み進められない。
関川さんの回想のきわだった特徴は、主観的印象は(自分の記憶でさえ)軽々には信じないという点にある。私たちは記憶を捏造する。経験したことを忘れ、経験していないことを思い出す。事後的に大きな意味をもつことになった出来事にはリアルタイムでもつよい関心を持っていた(場合によってはコミットしていた)ことになっているし、当時は大事件だったがその後忘れられた事件は、リアルタイムでもまるで興味がなかったという話に作り変えられる。私たちはつねに無意識のうちに記憶の事後操作を行っている。
関川さんはそのように操作される前の、無垢の過去、過去のリアリティに触れようとする。別にそれがすばらしいものだったからではない(変造される記憶の多くは、嫌悪感や苦痛や生理的不快を伴っているがゆえに変造される)。そうではなくて、過去を現時点での価値観や評価に基づいて回想しないこと、過去の出来事をリアルタイムの切実さと息づかいのまま再生することが重要なのだ。現在によって過去を見ることを自制する禁欲に関川さんは作家としての賭け金を置いているのである。私はそのことに敬意を抱く。