歴史記述について

2013-06-03 lundi

歴史研究者協議会というところから講演依頼があり、「国民の歴史」について話すことにした。
レジュメの提出を求められたので、こんなことを書いた。
実際には字数の制約があって、もっと短いのだが、ブログ用に少し書き足した。

歴史認識問題というものが存在する。
平たく言えば、歴史の認識が「国ごと」に違っているということである。
最近では日中・日韓・日米の「歴史認識」の違いが外交関係をぎくしゃくさせている。
あらゆる国民国家は自国の起源を有史以前の遠い過去に遡らせようとし、未来永劫に存在し続けるものとして表象する。
平成25年は皇紀2673年であるから建国は紀元前660年。隣国の壇君朝鮮はもっと早くて紀元前2333年の建国という話になっている。
同じく、どの国も永遠に存続するという前提を採用している。
中央銀行が発行する紙幣の価値を担保するのは「未来永劫に続く国家」だけだからである。
どこの国も、自分の国の歴史的ふるまいの正しさを過大評価し、誤謬や非行は過小評価するか、そもそも「なかったこと」にする。
たぶん人々はそれぞれの国が勝手な歴史を書くことを当然の権利だと思っているのだろう。
けれども、国民国家ごとに歴史認識が異なるというのは、一定の歴史的条件が整ったために生まれた一過性の現象であり、それゆえそれ自体が歴史学の研究対象であるべきだと私は思っている。
近代国民国家が制度的に認知されたのは1648年、ウェストファリア条約においてである。
このときから国土を持ち、国民がおり、常備軍と官僚層を備え、固有の言語、宗教、生活習慣、食文化などをもつ国民国家というものが基本的な政治単位に登録された。
誕生の日付が存在する制度であるから、いずれ賞味期限が切れる。
そして今、私たちは国民国家という政治制度そのものの「終わりの始まり」に立ち合っている。「世界のフラット化」を志向するグローバル資本主義がその障害となる国民国家を空洞化する方向に踏み出したからである。
国民国家がその存立条件としているすべてのもの-国境線・固有の言語・固有の貨幣・固有の度量衡・固有の商習慣など-は資本・商品・人間・情報のボーダーレスな移動を求めるグローバル資本主義にとって単なる「障壁」以外のものではない。
多国籍産業やヘッジファンドは国境を開放し、ビジネスランゲージも決済通貨も度量衡も統一することを求めている。企業が短期的に巨大な収益を上げ、CEOや株主たちが個人資産を最大化する上で端的に「国民国家は邪魔になった」ということである。
私たちの国でも、このグローバル化に即応した「歴史の書き換え」が進行している。
「慰安婦問題」や「南京事件」について日本を免罪しようとする「自虐史観論者」たちの語る歴史がそれである。
彼らが「慰安婦制度に軍部は関与していない」とか「南京事件などというものは存在しなかった」ということをかまびすしく言い立てるのは、その主張が国際的に認知される見通しがあるからではない。
全く逆である。
日本以外のどこでも「そんな話」は誰も相手にしないということを証明するために語り続けているのである。
彼らが言いたいのは、「自分たちが語る歴史だけが真実だ」ということではなく、それよりもさらに次数が一つ上の命題、すなわち「あらゆる国の歴史家たちは『自分たちが語る歴史だけが真実だ』と主張する権利がある」ということである。
彼らは自分たちが語っている自国史のコンテンツについての同意を求めているのではなく、「誰もが自己都合に合わせて、好きなように自国史を書く権利をもつ」ことにについての同意を求めているのである。
あらゆる国家は歴史を自己都合に合わせて捏造する。
だから、およそこの世に、国際社会に共有できるような歴史認識などというものは存在し得ない。
「国民の歴史」は原理的にすべて嘘である。
だから、誰もが歴史については嘘を語る権利がある。
これが自虐史観論者たちが(たぶんそれと知らずに)主張していることである。
誰もが嘘をついている。だから私も嘘をつく権利がある。そして、公正にも万人に「嘘をつく権利」を認める。
彼らはそう考えているのである。
この論法は「慰安婦制度」について、どの国にも似たような制度があると言い募った大阪市長のそれと同じである。
誰もが自己利益のために行動している。私はそれを咎めない。だから、諸君も私を咎めるな。
この命題は一見すると「フェア」なものに見えるが、遂行的には「持続的・汎通的な正否の判定基準はこの世に存在しない」という道徳的シニスムに帰着する。
それは要するに「とりあえず今勝っているもの、今強者であるものが言うことがルールであり、私たちはそれに従うしかない」という事大主義である。
同じことが歴史記述においても起きようとしている。
誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。
このシニスムが深く浸透すれば、いずれあらゆる「国民の歴史」を、自国の歴史でさえ、誰も信じない日がやってくる。
彼らがめざしているのは、そのことなのである。
「国民の歴史」とはどこの国のものも嘘で塗り固められたデマゴギーにすぎないという判断が常識になるとき、人はもう誰も歴史を学ぶことも、歴史から学ぶこともしなくなる。
そのとき国民国家は終わる。
国民国家は「国民の歴史=国民の物語」を滋養にしてしか生きられない制度だからである。
そして、それが滋養として有効であるためには、どのようなかたちであれ、「他者からの承認」が要る。
他者からの承認を持たない物語、「その『歴史=物語』を信じるものが自国民以外にひとりもいないような『歴史=物語』」を服用しているだけでは、国は生き延びることはできない。
だが、今起きているのは、まさにそういうことである。
ウェストファリアシステムが有効だった時代に、人々はそれぞれ自己都合に合わせて「勝手な歴史」を書きながらも、複数の矛盾する記述がいつか包括的な歴史記述のうちに統合されて、各国の自国史がその中の「限定的に妥当するローカルな真実」になることを夢見ていた。
だが、グローバル化の時代には、もう誰も「包括的な歴史記述」を夢見ることはない。
もうそんなものは必要がないからだ。
もう国民国家を存続させる必要がないからだ。