言語を学ぶことについて

2013-03-19 mardi

2002年に文科省はグローバル化する世界を生き抜くためには英語運用能力が必須であるとして、「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想を発表した。それから10年経った。日本の子どもたちの英語運用能力が上がったという話は誰からも聞いたことがない。
大学サイドから見ると、新入生の英語力は年々劣化を続けていることは手に取るようにわかる。進学にも、就職にも、英語力は絶対に必要であると官民あげてうるさくアナウンスされているにもかかわらずその教育成果は上がらない。なぜか。
英語力の必要が喧しく言われるようになってからむしろ英語学力が低下したという事実は一見背理的であるが、考えれば説明がつく。
教科を習得したときの「報償」が学習開始時点であらかじめ開示されているからである。
報償があらかじめ示されると、学習意欲は損なわれる。考えれば当たり前のことである。
「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益の提示があれば、子どもたちは必死になって勉強するだろうと大人は考えるが、そんなことは夫子ご自身を省みればありえないことが知れるはずである。
「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益が事前に開示されていた場合、人間は「では、どうやって最短時間、最小エネルギー消費で、『そこ』にたどりつくか」を考えるからである。最小の努力で、最大の報償を得る方法を考える。費用対効果の最もすぐれた学習方法を探し始める。当たり前のことだ。
日本の子どもたちも大人と同じように合理的に思考した。だから、「最小の学習努力で、高い評価を得る方法」を考えたのである。
文科省やメディアの口ぶりを見るとどうやらTOEICで高いスコアを取ることが英語学習上もっとも報償が高いらしい。では、最小の学習努力でTOEICのスコアを上げる方法を考えよう。そういう流れになる。さいわい書店にはその手の本が並んでいる。「6週間でスコアが100点上がる方法」とか、「居眠りしながらヒアリング能力が向上する方法」とか、いくらでもある。
むろん子どもたちは「6週間で100点上がる方法」より「3週間で100点上がる方法」を選ぶ。
「1週間で」という本があればそれを選ぶだろう。
そういうものである。事前に「獲得できる報償」が示されれば、子どもたちは「最短距離」を探す。
だが、そうやって最短期間に最高効率で身につけた英語力は、むかしの子どもが何年もかかって英語の小説を読んだり、英語の映画を見たり、英語の音楽を歌ったりしながら、じわじわと身につけた英語力と比べたときに、その厚みや深みにおいて比較にならない。「英語ができるといいことがある」というアナウンスが始まってから英語力が劇的に低下したことの説明はこれでつく。

でも、それでは、子どもたちの国語運用力も同時に低下していることの説明がつかない。というのは、国語についてはそもそも「国語ができるといいことがある」という報償の提示さえなされていないからである。
だから、国語のスコアを上げるための効率的な「ショートカット」を子どもたちも親も別に必死で探していない。
少なくとも私は保護者たちから「どうしたら最低の学習努力でうちの子どもの日本語運用能力を向上させられるでしょうか?」といったタイプの功利的な問いを向けられたことがない。
これはたぶん「日本人であれば、誰でも日本語は十分に使いこなせる」という前提を彼らが採用しているからである。
日本の子どもたちは「すでに十分に日本語運用能力を備えている」とされており、あとはただそれを数量的に増大させること(語彙を増やす、読書量を増やす、読書や書字のスピードを上げるなど)だけが問題なのだと人々は信じている。子どもも親も教師さえ、そう信じている。
だが、それは「ありえない」話なのである。
もし親の一方がアメリカ人で、家庭内では英語で会話しているという子どもが英語の成績がよければ、周囲のものは「アンフェアだ」と思うだろう。
だが、親の一方が熟達した日本語の遣い手であるために、子どもの国語の成績がいいことを「アンフェアだ」と言い立てるものはいない。
「熟達した日本語の遣い手」というものがありうること、長期にわたる集中的な努力なしには、そのような境位に至り得ないことを人々は認めたがらない。
だが、もちろんそのような文化的環境は存在する。それによる言語運用能力の差異は歴然として存在する。
でも、それを認めない人たちは自分が用いる日本語を豊かなものにすることに何の関心も示さない。
英語を最小の学習努力で習得しようとする費用対効果志向と、日本語はもう十分できているので、あとは量的増大だけが課題だと高をくくっているマインドセットは根のところでは同じ一つのものである。
どちらも言語というものを舐めている。 
言語というのは「ちゃっちゃっと」手際よく習得すれば、労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種だと思っている。
そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれており、外国語の習得によってはじめて「母語の檻」から抜け出すことができるという言語の底深さに対する畏怖の念がない。言葉は恐ろしいものだという怯えがない。

言語教育を主管する文科省の発令する文書を読むたびに、これを起草する人たちは言語というものをつくづく侮っていると思う。言語を憎んでいるのかと思うことさえある。
「国語力の増進」というような言葉を平然と使える言語感覚が鈍感さを私は責めようとは思わない。だが、それほどに言語感覚の鈍感な人間が言語についての政治を統制している事実の前にすると、暗い表情でうつむく他にとるべき姿勢を思いつかないのである。