『なめらかな社会とその敵』を読む

2013-02-13 mercredi

鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』を読み終わる。
発売当日から読み出したけれど、いろいろ締め切りや講演やらイベントが立て込んで、ようやく読了。
名著だと思う。
タイトルを借用したカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』に手触りが似ている。
数理的な思考による社会システム論であるが、「ロジカルに正しいことを言っていれば、いずれ真理は全体化するのだから、読みやすさなどというものは考慮しない」というタイプの科学的厳密主義とは無縁である。
とにかく読んで、理解して、同意して、一緒に「なめらかな社会」を創り出さないか、という著者からの「懇請」がじわじわと伝わってくる。
数式がぞろぞろと続くページも、著者は私の袖を握ってはなさない。
「意味わかんないよ」
と私が愚痴っても、
「あとちょっとでまた数式のないページにたどり着くから、読むのやめないで!」
とフレンドリーな笑顔を絶やさない。
「苦労人なんだな」
と思う。
サルガッソーというのがどんな会社か知らないし、そこで働いていたはずの森田真生君から聞いた話でも、やっぱり何やってる会社かよく分からなかったけれど、「こういうこと」をしたいとビジネスマンたちに説き聞かせていたのだとしたら、そりゃたいへんご苦労されただろうと思う。
「素人相手に自分のプランを説明して、納得させる」
という修業を長くされてきたことが行間ににじんでいる。
素人は専門的な話の中身は理解できない。
でも、「今こうやって必死にしゃべっている青年は、私利私欲のためにそうしているのか、功名心とかルサンチマンに駆られてやっているのか、それとも本気で『住みやすい世の中』を世のため人のために創り出そうと思ってそうしているのか」なら非専門家でもわかる。
この青年は本気だ。
素晴らしいことだと思う。
これだけの知力と馬力があれば、個人資産を増やすことも、世俗的な名声を勝ち得ることもむずかしいことではなかったはずだ。
でも、鈴木さんはそういうことには力を用いなかった。
その知恵と力を「この世界を、手堅い方法で、住みやすいものにする」という事業に注いだのである。
偉いものである。
「青年」という存在が地を払って久しいけれど、乱世になるとこうやってちゃんと出現してくるのである。

この本がどういうことを扱っているか、それを要約するのは私の手に余るし、実物を手にとった方が早いので、印象だけを申し上げる。
上に書いたとおり、本書のタイトルはポパーをふまえているが、ふまえているのは題名だけではなく、アプローチも近い。
ポパーの長大な書物に伏流しているのは
「世界を一気に人間的なものにしようとする企ては、必ず非人間的な手段を迂回する」
という人間の度しがたい愚かさに対するポパーの怒りと悲しみである。
「できるところからこつこつと」
「企ての成功を数え上げる暇があったら、企ての失敗したところを探し出して、そこを手直しする」
というのが、ポパーの社会改革の方法であり、彼はこれを「piecemeal」と形容した。
「ピースミール」というのは、「一個ずつ」とか「パーツごと」とか「漸進的」という意味である。
「一気に」とか「根底から」とか「徹底的に」というやり方がどれほど多くの破壊をもたらすかポパーは骨身にしみていたからである。
オーストリアのウィーン育ちのユダヤ人であったポパーは、ヒトラーによるオーストリア併合を逃れてニュージーランドに渡り、そこで大戦中にこの本を書いた。
彼が置かれた歴史的状況が「多様なものとの共生、理解も共感も絶した他者への開放」を学的に基礎づけることを要求したのである。

鈴木健さん『なめらかな社会とその敵』もまた、その説くところは、あえて倫理的な言葉遣いをするなら、「多様なものの共生、他者への寛容」である。
けれども彼はこれを数理的に厳密な手続きで基礎づけようとする。
人の善意とか意志のようなものを根拠にすることはできない。
善意や意志が根拠とするにはあまりに脆弱であるからではない。
それがあまりに頑なだからである。
そのようなリジッドなものによっては「なめらかな社会」は実現できない。
ここに私は鈴木さんの洞察のきわだった深さを感じるのである。

人によってこの書物から読み出すものは違うだろう。
もちろん違ってよいのである。
私が最も深く共感したのは、「分人民主主義(divicracy)」について述べた章で、「首尾一貫した自己、統合された自己」なるものは近代の発明であり、もともと人間は複数の声が内部に輻輳する「分心」の状態にあるという指摘である。
著者も引いているとおり、ジュリアン・ジェインズの「二分心」というのはそういうアイディアであった。
『神々の沈黙』で、ジェインズは、古代ギリシャまで人類はいわゆる「意識」なるものを持っておらず、心は二つに分かれて、左脳は右脳から響く「神々の声」に従っていたという驚くべき説を唱えた。
『イーリアス』や『オデュッセイア』において、神々は勇士たちにことあるごとに語りかけ、その行動を導き、決断を促したが、その「神々の声」は、実は当時のギリシャ人たちには「ほんとうに聴こえていた」、というのがジェインズの説である。
古代ユダヤでも同じ。
預言者や族長のもとに神はしばしば「声」として臨んだ。
視覚像として神を表象することへの厳しい禁忌は「神は声として顕現するのであって、形象としてではない」という古代人の「実感」を映し出している。
そう考えると、いろいろなことが腑に落ちる。
時代が下って、ディズニーアニメでも、「財布を拾ったグーフィー」の頭の上で、「ネコババしちゃえよ」という「悪魔的グーフィー」と「持ち主を探して返しなさい」という「天使的グーフィー」が激しい争いを演じている。
このマンガを見て、幼児でもその意味するところがわかるのは、それがおそらく人間の意識の古層にわだかまっているニ分心の「実感」だからである。
ジェインズによれば、右脳の発する「神々の声」は人間のうちにあるさまざまな思念な感情のうち、より公共性の高い部分を代表していた。
「公私」のうちの「公」である。
忠誠心とか責任感とか使命感という言葉を使うときに、私たちがいまでも「心」とか「感」という名詞を接尾辞のようにつけるのは、それとは違う、ときにそれとは背馳する「心」や「感」もまた自分の中に存在することを知っているからである。
私たちはそういう意味では全員が「程度の差があるだけの統合失調症患者」であると言ってよい。
少なくともフロイトはそう考えていた。
意識は分裂しているのが常態なのである。
それを無理やり統合し、足元のおぼつかない「一貫した自己」なるものを立て、その擬制に基づいて社会制度を設計したせいで、さまざまな対立や暴力や収奪が起きた。
それが「とげとげした社会」である。
鈴木さんの言う「なめらかな社会」とは未決定のうちに絶えず引き裂かれてある人間のありようを「デフォルト」として、それに基づいて設計された社会のことである(多分、そういう理解でよろしいかと思う)。

鈴木さんはこう書いている。
「自由意志をもった一貫した自己というイメージは、他者から責任を追求されることによって強化される。(…)
頭の中をかけめぐる複数の異なる声、これこそが分人たちの声である。これらの声は矛盾し、会話し、ときに溶け合うこともある。ちょうど自分の腕を他人の腕だと信じて疑わない自己身体失認と同様に、自分の脳の中の声も他人の声として聞こえてしまうのが統合失調症によくある幻聴の症状である。それらは宇宙人の声や神の声として解釈されることさえある。
自分の体で起きることを身体の所有感覚としてもてないことがあるのと同様に、自分のまわりで起きる社会的出来事を所有感覚としてもてるかどうかは自明ではない。ときに家族は家族として感じられなくなったり、国を国として感じられなくなる。家族愛や愛国心は自明ではない。だが、責任を要求することによって、自己は統合され、自らを合理化して制御し、それを通じて組織や国家に尽くすことができるようになる。こうして、社会的責任を通じて一貫した自己が生まれる。
分人民主主義が否定するのはこうした自己の結晶化である。身体が生み出す矛盾した声を、矛盾したまま吐き出すことができれば、分人たちの新しい民主主義の可能性が顕在化する。」(鈴木健、『なめらかな社会とその敵』、勁草書房、2013年、174頁)

私自身は分人民主主義のかたちや機能のしかたについて、鈴木さんほどにクリアーカットなイメージをもつことができずにいる。
けれども、私がエマニュエル・レヴィナス先生から学んだのは、「同一的な自己に居着かず、つねに引き裂かれてあることを常態とすることができるかどうか、それが人間的成熟の指標である」ということであった。
多田宏先生から学んだのは、「対立的にではなく、同化的に身体を使うことによって居着きを去ることが武道の要諦である」ということであった。
私もまた鈴木さんとは違うしかたで、「矛盾したものを矛盾したまま共生させるための原理論とその技法」についてひさしく考えてきた。
そして、この本を読んで、自分とは違う声が、まるで自分自身の声のように間近から聴こえてきたことに驚愕したのである。