直感と医療について

2012-06-18 lundi

第13回日日本赤十字看護学会というところで講演をすることになって、長野県の駒ヶ根というところに来ている。
学会は今朝から始まっているが、私は懇親会に出るだけで、明日の朝講演をすることになっている。
頂いたお題は「東日本大震災における天災と人災」というものだが、私を講師に指名して下さったということは、「人災」の構造についての分析だけのためとは思えない。
私が武道家としてこれまで考究してきたのは、天災であれ、人災であれ、「生きる力」を損なうものからどうやって身を守るか、ということである。
自然災害であれ、人間が発する邪悪な思念であれ、それが私たちの生物としての存在を脅かすものであれば、私たちはそれを無意識のうちに感知し、無意識のうちに回避する。
たしかにそのような力は私たち全員のうちに、萌芽的なかたちで存在する。
だが、それを計測機器を用いて計量し、外形的・数値的に「エビデンス」として示すことはできない。
「不穏な気配」とか「殺気」とか「邪眼」とかいうものは、「やかん」とか「おたま」とか同じようにリアルに存在する。私はそう思っている。現に、それを感じることがある。少なくとも、明治維新以前の日本人はほとんどは、危険な「気」を感知すると、立ち止まったり、五感の感度を上げたり、姿勢を変えたり、歩く進路を変えたりすることを「当然のこと」として行っていた。
何らかの入力に反応して、「このままではいけない」と判断すると、「するはずだったこととは違うことをする」というのは、平安時代の「方違え」以来、今に至るまで、生き延びるためのもっとも基本的なセンサーの使い方である。
その「見えない危険を察知するセンサー」をどうやって組織的に開発するか、それは久しく学校教育の重要な課題であった。
でも、現在の学校教育でも、職業教育でも、「何かが起きているような気がするのだが、それをエビデンスによって示すことができないことがら」に対するセンサーの感度をどうやって高めるかという教育的課題に真剣に取り組んでいる人はまれである。
ところが、やはり、そういう人たちがいるのである。
医療の現場というのは、「人間の身体という生もの」を扱っているために、経験知が理論知に優先することがある。
なぜそれがわかるのか説明できないが、わかる。
なぜそれができるのか説明できないが、できる。
そういった経験知なしには、医療の現場は成り立たない。
ナースというのは、そういう仕事をしている人たちである。
だから、看護系の学会から私のような人間のところに繰り返し講演依頼が来るのだと思う。
「人間はできないはずのことができる」「どうしていいかわからないときに、どうしていいかがわかる」
これは武道の実践においては「当たり前」のことであり、そもそもその能力の涵養のために修行しているわけである。
だから、「エビデンスがなくても、現場のナースには直感的にわかることがある」という話を聴いても、私はすこしも不思議に思わない。
「『やかん』て、ありますよね?」と訊かれて、「うん、あるよ」というような会話を私はしているつもりなのである。
ところが、世の中の多くの人は「ふざけたことをいうな、『やかん』などというものが、この世にあってたまるものか」と怒り出すのである。
何も怒ることないじゃないですか。
だって、『やかん』あるし。
オレ、それで今朝もコーヒー淹れたし…
そういう流れに困惑し果てて、私はなんとか武道論や身体論を学術的に基礎づけたいと思っているのである。
長いマクラになったが、私と同じ困惑を感じている人たちがいる、という話である。
それは看護師の方々である。
この第13回日本赤十字看護学会の「趣旨」をお読み頂きたい。

日本の旧来の看護は、疾病別の看護法という形で教育されてきました。そして、戦後はGHQの指導に象徴されるように、アメリカの影響を全面的に受けてきました。看護の独自性、科学性を打ち出すことが標榜され、昭和43年には、テキストが改正されました。いわゆる赤本と呼ばれるテキスト体系である看護法の時代から看護学という学問体系を意識した教育へと大きく舵が切られました。
学問の始まりは分類することでした。分類し、弁別するという思考法は、やがて神と人間の関係から原因と結果の関係へと置き換えられ、自然科学的思考法という神秘性を超越したかに見せる合理的思考法へと姿を変えていきました。看護学もまたそれに倣い、科学的思考の虜になっていきました。科学的看護がもてはやされ、それは大きく看護教育の大学化を実現させていきました。人間界における諸現象は何事もそうではありますが、看護においてもその間の揺れ戻しはありました。自然科学では説明できない事態についての議論が盛んに行われた時期もありました。そしていま、経済活動の下降、衰退により、医療においても看護においても、エビデンスブームが起こっています。自然科学思考の回帰です。歴史は繰り返します。それでもその裏では、看護本来の機能である日常の営みからもたらされた数多くの工夫と創造による優れて看護的な技術が伝承されてきました。しかし、いまエビデンスブームの中で、自然科学的検証になじむ技術以外のものはどんどん忘れ去られていきつつあります。
一方、医療現場はすでに聖域ではなくなり、市場経済の真っただ中に置かれていることは申すまでもありません。段階的治療、入院期間の短縮、地域医療への移行、慢性化状態や障害の福祉への転換など、経済効率が優先されるようになりました。そして、昨今の救急・急性期病院での治療や看護現場、リハビリなどの各種施設、在宅療養に移行した患者さんやその家族などに目を遣ると、理学療法士や作業療法士をはじめ、ケースワーカーや臨床心理士、臨床薬剤師、保育士、栄養士など、さまざまな職種がチームとして入り混じった形で仕事をしています。チーム医療は、当初のようなツリー型の整然としたものではなく、自由に根を張るというよりは根を絡ませるリゾーム型医療に変貌してきています。そのような現状において、看護の専門性はややもするとかすみがちになっています。なぜならば、病院内看護においては医療処置の格段の増加に伴い、看護職者が行う行為が多すぎること、看護の専門性が他職種の専門性と重なることがあるゆえに他職種に取って代わられているからです。裏を返せば看護の専門性とは、それだけ広いがゆえに曖昧に見えるのです。
そんな中、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災が起こりました。物事は常に相対的です。私たち人間の日常もまた非日常とワンセットになっています。日常の中に非日常があり、非日常の中に日常があります。そして、私たちが二つの大震災直後に目にしたことは、非日常に覆い尽くされた人々の生活でした。そして次に目にしたのが、その非日常の中にあって日常を取り戻そうとする人々の姿です。東日本大震災から、はや5カ月が過ぎようとしています。被災し、避難所や仮設住宅で暮らす人々、そして県外への移住を余儀なくされている人々が苦しみながら切実に願っていることは、この非日常の中に日常を取り戻すことなのです。
看護も医療も、つい最近までは病院内看護が主流でした。しかし、超高齢化社会を迎え、経済政策の大きな柱は、医療経済をどうするかでした。そこで病院医療は地域医療へとシフトしていきました。家庭という日常から病院という非日常への移行、そして非日常から日常への回帰です。家庭から病院、そして家庭へと還ってきたのです。看護は、できるだけ病院という非日常に可能な限りの日常を持ち込むことに心を砕いてきました。そして今は逆に、在宅治療のためにさまざまな医療機器を持ち込み、家庭がまるで病院のミニチュアのような光景を呈している状況を生みだしている場合さえあります。生老病死が人にとって避けがたい事態であるかぎり、日常は常に非日常と背中あわせです。看護は、健康にまつわる日常的営みが職業として特化されていったときに専門性という非日常的営みを獲得する必要性に迫られました。従って、非日常という専門性が学問という形に昇華され、体系化されたとしても、それが実践に移される時には再度人々の日常に戻されることが必要です。このことは、大震災での非日常と日常の関係と同じ構図です。
このように考えてくると、看護が対象者とする人間についての理解、看護の方法についての技術、さらに看護を展開する場、つまり「対象論・方法論・展開論」という看護を構成しているすべてに違和感を覚えてしまいます。対象者としての理解は一面的です。身体は解剖生理学的な理解にとどまっています。検査で異常がないと言われても、体のあちこちの違和感や痛みが解消されないことは多いはずです。何となく変な感じが病気の前触れであったことも多々あると思います。そういった日常的に感じているさまざまな感覚は、解剖生理学的身体や病理学的身体では説明できないことが多いのです。なぜならば身体は重層的だからです。生物学的医学という意識的な言葉では説明できない前意識的あるいは無意識的な感覚が人間の身体の底には横たわっているはずです。直観や予兆などはそのよい例でしょう。また身体と心は連動しているはずです。心と身体は相互交通しているのはもはや自明のことです。看護技術はどうでしょうか。各種の高度な医療機器と診療報酬という医療経済的事情から、患者さんの生命力の消耗を最小にするような看護技術が忘れ去られ、また創造されなくなってしまいました。自然科学的なエビデンスを証明できない技術は消滅していきそうです。そして看護が展開される場は、病院などの施設、地域、そして災害などの有事の場といった具合に分断されていることに気付きます。一体化している心と身体、自己と他者という関係の相互作用としての対他的な看護技術、背中合わせである日常と非日常といった観点から、臨床看護を創出していく必要があると思います。

どうです。
看護の現場のひりひりするようなリアリティが伝わってくるではありませんか。
特にこの箇所に私は「びびび」と来た。
「なぜならば身体は重層的だからです。生物学的医学という意識的な言葉では説明できない前意識的あるいは無意識的な感覚が人間の身体の底には横たわっているはずです。直観や予兆などはそのよい例でしょう」
そうです。その通りです。

明日の講演では、「そういう話」をたっぷりさせて頂きます。