『日本辺境論』韓国語版序文

2012-03-10 samedi

『日本辺境論』が韓国語訳されることになって、序文を頼まれたので、それを書いた。
『日本辺境論』は中国と韓国の読者をつよく意識して書いた日本文化論であるので、これが韓国語に翻訳されることは書き手としてたいへんにうれしい。
どういう受け取り方をされるのか、興味がある。
これは私の著作の中では(たぶん)四冊目の韓国語訳である。
あちらの出版社がどういう基準で選書して、翻訳しているのか、ラインナップをみても、正直言ってよくわからない(『下流志向』、『寝ながら学べる構造主義』、『若者よマルクスを読もう』、そして本書)。
なんとなくわかるのは、「学術的にいささかややこしい話」を「コロキアルなことば」に置き換えて説明するという「学術言語と生活言語のブリッジ」という仕事に、韓国の学者たちはあまり熱心ではないのではないかということである。その「ニッチ」を埋めるような書き手を韓国の読者たちもなんとなく求めている・・・ということではあるまいか(勝手な推測ですけど)。
ともかく私の書いたものを読んでにやりとしたり、「ふん」と鼻をならしている隣国の人の顔を想像すると、なんとなく心が温かくなるのである。

というわけで、韓国語版のための序文をここに転載しておく。

『日本辺境論』韓国語版のためのまえがき

みなさん、こんにちは。内田樹です。
『日本辺境論』韓国語版お買い上げありがとうございます(まだお買い上げでなくて、本屋で立ち読みしている方も、この本を手にとってくださったことにお礼申し上げます)。
この本が韓国語に訳されたことを、とてもうれしく思います。というのは、この本は韓国の人と中国の人にはぜひ読んで欲しいと思って書かれたものだからです。

本の最初の方にも書きましたけれど、日本人は「日本人論」「日本文化論」が大好きです。自分たちがいかに特殊な国で、特殊な国民性格と特殊な文化を持っていて、それが隣国と違うか、ということをことあるごとに論じます。たぶん世界でいちばん「自国文化特殊論」が好きな国民だと思います(というような書き方がその典型です)。
そのこと自体はまあ趣味の問題ですから、「お好きに」で済ませてもいいと思うんですけれど、問題は、この日本文化特殊論がしばしば隣国(中国、朝鮮、台湾)とわが国の比較のかたちをとり、「隣国の人たちの国民性格は陋劣であり、国民文化は質が低い」という命題を主張するものが少なくないことです。これは人間的態度としてもほめられたものではありませんし、学術的な厳密さを求める上でもよろしくない。
もちろん、日本の知識人たちが書いた日本文化論、日本人論の中にはそのような自民族中心主義に堕すことのない、学術的な骨格のはっきりしたものもたくさんあります。でも、残念ながら、それらの書物も「隣国の人たちに読んでもらいたい」という意志をはっきりと持って書かれたものではありません。例えば、代表的な日本文化論である、内村鑑三の『代表的日本人』や岡倉天心の『茶の本』や新渡戸稲造の『武士道』は最初から英語で書かれています。これらの書物は、欧米の読者に向かって明治の日本が列強に匹敵する質の固有の文化を持っていることを強調して、国際関係において名誉あるポジションを請求するというつよい政治的意味を帯びていました。記述も精密ですし、中立的です。
でも、英語で書かれたということからわかるように、想定されていた読者は欧米の、それも政策決定に関与できるレベルの知識人だけでした。朝鮮半島や中国大陸の人々はたぶんこれらの書物の読者には想定されていません。
本書でも引用した丸山眞男や川島武宜の日本文化論はたいへんすぐれたものですが、「日本人の知識人でなければ知らない学術情報」に多く依拠しております。ですから、日本研究の専門家以外の、外国人一般読者がこれを読了するためには、かなりの忍耐と努力が必要でしょう。
それらのすぐれた日本文化論を除くと、外国の読者に読まれることを想定して書かれたものはほとんどありません。しかし、「日本文化はすばらしい(他の国の文化よりずっとすぐれている)」というような書き方を(読者に迎合してか、あるいは出版社の要求に従って)許してしまうと、その書物にどれほど有用な知見が含まれていても、外国の読者からは「プロパガンダ」に分類されてしまいます。
プロパガンダは国内的な「文化的消費財」ではありえるでしょうが、他国の人たちが日本の国民性格や日本の国民文化についての理解を深める役には立ちません。

本書ははじめから、外国人読者に(それも隣国の人たちに)「日本を理解してもらいたい」というはっきりとした意図を持って書かれたという点では、かなり例外的な日本文化論だと私は思っています。
それは別に私が例外的に中立的な人間であるからではありません。
たまたま、長くフランスの文学と哲学を専門的に研究してきたせいで、自分の書いたものが「フランス語に訳せるかどうか」ということをものを書くときのひとつの基準にしてきたからです。
自分が日本語で書いたものを読み返すときに、私はいつも想像的に「これを翻訳するフランス人のつもり」になって読みます。そうすると、「これはちょっとフランス語にならないな」という箇所に身体が反応します。「フランス語にならない」のは統辞構造や語彙の違いのせいばかりではなく、「外国人が読むと、よく意味がわからない」ところ、「日本人同士にしかわからない話」が書かれているからです。ですから、それについては、改めて外国の人が読んでもわかるような「説明」を考える。
「外国人にもわかるように説明する」というのは、「ラディカルに(文字通り根源的に)説明する」ことを求めます。
例えば、野球について書くとき、強打かバントか、真っ向勝負か敬遠か、といった技術的なことについて「野球を知っている同士」で話すことはそれほどむずかしくありません。でも、ここに「野球を全く知らない人」がいて、その人に「野球とは何か」を説明するのは、たいへんにむずかしい。説明しようとしたら、「ラディカルに」考えざるを得ないからです。野球の話なら、「ボールは『生きている』か『死んでいる』かいずれかの状態にある」、「『生きているボール』に人間が触れると何かが始まる(あるいは終わる)」、「二つの集団に別れて、一方は『生きているボール』に追いつかれるより早く『家』にたどりつこうとし、一方はそれを阻止しようとする」などなどという原理的な話から始まります。そして、そういう説明をしているうちに、説明している当人も、このスポーツが実はかなり神話的な構造を持ったものであることがわかってきます。他のボールゲームとの相同性も見えてくるし、差異も明らかになる。
今のは少し極端な例ですが、でも「外国人にもわかるように説明する」ためには、「原理的な話から始める」他ないというのはほんとうです。
私にとって、これは文章を書く上で、たいへんよい訓練になったと思います。別に私の書くものが「フランス語のように明晰にして判明になった」と言っているわけではありません。でも、「少しでもひっかかったら、できるだけ原理的なところから説明する」という習慣が身についたことです。
この本でも、日本人の国民性格を「できるだけ原理的なところから説明する」ことを心がけました。日本文化論としてはあまり新味のない本ですけれど、その努力に気づいてくださったら、書き手としてたいへんうれしく思います。
この本は私の著書の中で韓国語訳される四冊目の本だと思います。
私の記憶では、これまでに『下流志向』、『寝ながら学べる構造主義』、『若者よマルクスを読もう』(石川康宏との共著)が訳されています。どういう方が、どういう気持ちでこれらの本を選んで「これは韓国の読者に読ませたい」と思ったのか、またどういう方が私の本を選んで読んでくださっているのか、読んだ後にどういう感想を持たれたのか、書き手としてはたいへんに興味があります。機会があれば、ぜひどなたかご教示願いたいと思います。

私のつたない文章を韓国語に訳された訳者の方のご努力と忍耐に感謝致します。
それから、これは個人的な願いですが、もし韓国にも「韓国文化論(中国大陸と日本列島のはざまで)」というような文化研究があったら、ぜひ読みたいと思います。これもご教示いただければさいわいです。
本書の韓国語版刊行にかかわったすべての方々と、お読みくださった方々にお礼申し上げます。どうもありがとう。