ガラパゴス化の症状としてのグローバリズムについて

2011-11-03 jeudi

広島学院の文化祭で、中高生1000人ほどをお相手に講演。
文化祭のキックオフイベントである。
高校生を講堂に集めての講演は何度か経験があるが、中学生ははじめて。
でも、関係ない。
子供たちは「彼らの知性に対する敬意」が示される限り、その限界まで理解力を押し上げてくる、というのは私の揺るがぬ確信である。
「子供にもわかるように話す」人間の話を聴いているうちに知性的、情緒的な成熟が果たされるということはない。
一期一会。1000人の少年たちが私の話を70分間静かに聴いて下さるというのである。
このチャンスを逃すことはできない。
君らの理解力を限界まで高めないと「ついてこられない」話をしようではないか。
というわけで、まず国際関係における「移行期的混乱」についてお話しする。
来年のアメリカ大統領選挙の見通しについて、中国の産業空洞化について、EUの瓦解の可能性について、プーチンの資源外交と北方領土ブラフについて。そして、「激動するグローバル社会」の変化に最も遅れているのが、今頃「国際競争」とか「グローバル人材」とか言っている人々であるという話をする。
世界情勢の変化を見ると、日本は相対的に社会システムが最も安定している国に数えてよい。
これだけの国内的危機を抱えながら、いまだ内戦も、テロも、ゼネストも、流血のデモも、商店の略奪も、人種間抗争も、少数民族の独立運動も、辺境の離脱も、国軍のクーデタも「心配しなくていい国」は世界に例を見ない。
だからこそ、「安全な国の通貨」が買われているのである。
輸出振興のための円安がそんなにご希望なら、政府がこっそりと今あげたうちのどれかを仕掛ければいい、すぐに円は暴落するだろう。だが、それは貿易黒字とトレードオフできるような事態ではない。
繰り返し言うが、日本は世界で群を抜いて社会システムの復元力が強い国である。
この特殊日本的な「メリット」を無化して、他国と同じ「劣悪な条件で」競争させようとするのが、「グローバル化」である。私はそう理解している(同意してくれる人はほとんどいないが)。
今日の毎日新聞に「TPP参加で立ち遅れている業界の尻を叩け」という論説が掲げてあった。
「TPPの圧力を利用して国内改革を進めよう」としているベトナムやマレーシアに「続け」というのである。
この編集委員は「負ける確率の高いゲームに参加した方が、ゲームに負けない確率は高まる」という不思議なロジックを駆使していた。
彼がいったいどういう思考訓練の果てに、このような奇怪なロジックを操るようになったのか、私には想像がつかない。
「溺れないようにするためには、溺れて死ぬほどの目に遭わせるのが捷径である」という人に、私が訊きたいのは、それで溺れたらどうするのか、という素朴な問いである。
それよりは「溺れそうな場所には近づかない」方が生き延びる確率は高いのではないか。
ベトナムやマレーシアの後塵を拝さないためには、まずベトナムやマレーシアの「後に続くべきだ」という命題には論理性が欠けているということに、どうしてこの編集委員は気づかずにいられるのだろうか?
もちろんこの「?」は修辞的な疑問符であって、私は理由を知っている。
それは「どんなにボコボコにされても、命までは取られない。『タンマ』と言えばゲームを中断してもらえる」と彼が思っているからである。
一度きっちり締め上げてやらんと、生ぬるい環境でぬくぬくしている奴らは目を覚まさん、と思っているのである。
「自分が有利に立つためには、わざと不利な条件で戦うとよい」というような言葉がポロリと出るのは典型的な「平和ボケ」の症状である。
「誰も命までは取りゃせんだろ」というこの生ぬるい構えそのものが「ガラパゴス化した日本の症状」なのである。
私の見る限り、「ガラパゴス化」を難じる人々の中には、なぜそう言う夫子ご自身だけは日本人であるにもかかわらずガラパゴス化を免れているのか、その理由を吟味している人のあることを知らない。
日本はこれでもまだ先進国中では相対的に安定した社会システムを維持できている。
これを「他の国並み」にしようというのが「グローバル化」である。
条件をいっしょに揃えれば、自由な競争ができる、と。
それだけ聞くと話のつじつまが合っているようにも聞こえる。
だが、「ゲームへの参加」は先祖伝来の国民的な宝であるところの「社会的安定」(それを他のアジア諸国は有していないのである)を供物に差し出さなければならないほど緊急なことなのか。
内戦もテロもなく、国民皆保険制度で医療が受けられ、年金も僅かなりとはいえ支給され、街頭でホールドアップされるリスクもなく、落とした荷物が交番に届けられる国は一朝一夕でできたわけではない。
先祖たちの営々たる努力の成果である。
この社会的なセキュリティーを市民たちが自己責任、自己負担でカバーしようとしたら、どれほどの代償を支払わなければならないのか、グローバリストたちは考えたことがあるのだろうか。
彼らの特徴はこのような「見えざる資産」をゼロ査定することにある。
それはこの「例外的な安全と豊かさ」のうちで66年間うつらうつらと眠っていた日本人の「平和ぼけ」の症状そのものなのである。
重ねて言うが、私たちが「ぬるい」のは、それでも生きていけるほど豊かで安全な社会に私たちが住んできたことの「コスト」である。
一瞬の油断もできぬ、ヒリヒリした環境に身を置きたいという気持ちは私にもわからぬではない。
でも、そのハードボイルドな気分の代償に「ぬるくても生きられる」この安全と豊かさを放棄してもいい、とグローバリストたちは本気で思っているのだろうか。
そこで自分が生き残れると本気で思っているのだろうか。
私は無理だと思う。
というような感じで、延々と70分間グローバル人材育成教育の悪口を言い続けたのでした。
「グローバル人材」とか「キャリア教育」とか「教育投資」とか「自分の付加価値を高めろ」とかいう人間を信じるな。
そいつらは君たちを「英語がしゃべれて、ネットが使えて、コミュニケーション能力があって、一日15時間働ける体力があって、そして十分に規格化されているのでいくらでも換えが効く人材(つまり、最低の労働条件で雇用できる人材)」に仕立てることで、最低の人件費コストで最大の収益を上げることを求めてそう言っているわけであって、君たちの知性的・感性的成熟には何の関心もないのだ。
そういうやつらの言うことを信じるな。
広島学院はイエズス会のつくったミッションスクールなので、神戸女学院と同じく、教育への政治と市場の介入に対しては、懐疑的な校風であったので、先生方も私の話をけっこう喜んで聞いてくださったようである。
講演のあと、何人かの高校生から握手とサインを求められた。
話が気に入ってくれたのならいいのだけれど。