教育基本条例について

2011-08-22 lundi

大阪維新の会が教育基本条例の素案をまとめた。
知事・市長による教育目標の設定や教育委員の罷免権など、教育委員会に対する政治主導を明記したほか、校長による教職員への権限強化など組織管理の徹底も打ち出している。
その趣旨は基本条例の冒頭に示されている。
「教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかったという不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない」。
教育の独立性についても、従来の教育現場からは違和感のある理解が示されている。
「教育の政治的中立性や教育委員会の独立性という概念は、従来、教育行政に政治は一切関与できないかのように認識され、その結果、教員組織と教育行政は聖域扱いされがちであった。しかし、教育の政治的中立性とは、本来、教育基本法(平成18年法律第120号)第14条に規定されているとおり、『特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育』などを行ってはならないとの趣旨であって、教員組織と教育行政に政治が関与できない、すなわち住民が一切の手出しをできないということではない。」
ここに貫かれているのは「政治家は選挙で選ばれ、民意を代表しているので、公的な制度の最上位に置かれるべきであり、選挙で選ばれた政治家の選択する政策に反対するものは民意にそむものである」という、いわゆる「政治主導」の考え方である。
この「政治主導」という考え方は民主党が政権交代のときに持ち込んだもので、その無残な失敗はこの2年間の経験であきらかになったと思っていたが、どうもそうではなかったようである。
2009年9月の総選挙において「民意」は民主党に308議席を与えた。
議席占有率は64%。けれども、そのあと失政が続き、政党支持率は2011年8月現在で10%にまで落下した。
このあとさらに低下するかも知れない。
いま解散総選挙を行った場合、民主党は高い確率で政権を失うだろう。
つまり現政権は「民意を代表している」とはすでに言いがたい。けれども、擬制的には「民意を代表している」とみなされている。
そうしないと、外交も内政も立ちゆかないからである。
「民意」は極端から極端に急変するが、擬制的には「システム」は惰性を保っている。
「民意」と「システム」は違う時間を生きており、違う波動で動いている。
これを不条理と思う人もいるかもしれないが、この「ラグ」は制度的に作り込まれたものである。
もし「民意」がただちにあらゆる場面で実現されるべきであるというなら、「政治家人気ランキング」を毎日実施して、その日のトップの人間に総理大臣を依嘱するというのがいちばん民意に忠実な統治方法である。
けれども、誰が考えても、そのようなめまぐるしい統治者の交代は国益を増大するよりも損なうことの方が多い。
私たちの社会に存在する制度文物のうちには、そのつどの「民意」を受け入れて即時に制度改変をすることが可能であり、かつその方がよいものもあり、「民意」に応じて、制度改変すべきではないものがある。

これまでも繰り返し書いてきた通り、学校教育は惰性のつよい制度であり、また惰性がつよいということが必要な制度であり、軽々に「民意」(すなわち政治イデオロギーと市場の要請とメディアの作り出す世論)に応じて改変すべきものではない。
宇沢弘文先生の「社会的共通資本」論によれば、「共同体の存立に必要不可欠のもの」は社会的共通資本と呼ばれ、専門家による専門的な管理運営にゆだねるべきものであって、そこに政治と市場は関与してはならない。
社会的共通資本の第一は自然環境である。
大気、水質、土壌、海洋、河川、湖沼、森林などは人間が生きてゆく上で必須の資源であるので、「政治的に正しい環境論」や「収益率の高い環境利用」といったものに管理をゆだねてはならない。
第二は社会的インフラストラクチャーである。
交通、通信、電力、ガス、上下水道なども社会生活を営む上での基本であり、政権交代のたびに新幹線の停車駅が変わったり、株価が高下するたびにライフラインが動いたり止まったりされては困る。
第三は制度資本である。
司法、医療、教育などがこれに相当する。
「裁き」と「癒やし」と「学び」のためのシステム、それなしでは人間集団が機能できない基本的なシステムである。
これらの制度の原初的な形態が整備されたのは人類史の黎明期に遡る。
忘れてならないのは、国民国家より資本主義経済システムより、司法や医療や学校の方が制度的にはずっと古いということである。
だから、学校教育について、これが現在の政治イデオロギーになじみが悪いとか、市場の要請にジャストフィットしていないとかいう理由でクレームをつけるのは、裁判官に向かって「愛国心に富み、伝統文化への造詣の深い被告に対しては量刑を軽くしろ」と命じたり、「刑務所の管理コストがかさむから、執行猶予をふやせ」と要求するのと同じようなナンセンスなのである。

社会的共通資本としての学校の目的はただ一つである。
それは「集団を支える成熟したメンバーを再生産する」こと、要するに「大人を作り出す」ことである。
これに尽くされる。自余のことはすべて副次的なものに過ぎない。
だから、教育制度に改変を試みる場合は、それによって「子供たちを成熟に導く」という目的にどのようなプラスが加算されるか、それだけが適否の基準になる。
子供たちの成熟にかかわらないもの、あるいは成熟を阻害するものを、学校は受け入れるべきではない。
これが私の教育論の基本にある判断基準である。
その上で維新の会の提言を見る。

維新の会の提言している一連の教育改革は「効率的な上意下達組織の形成」にある。
素案には、「我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること」という基本理念が掲げてあるが、これを書いた人は別に愛国心や郷土愛を高めたいと切実に思っているわけではないだろう。
私が経験的に知っているのは、「愛国心」とか「郷土愛」ということをうるさく言う人間に、同胞や同郷者に対する寛大さや愛情の深さできわだつ人間を見たことがない、ということである。
彼らはむしろ「愛国心のない人間」や「郷土愛を欠いた人間」をあぶり出して、彼らを攻撃し、排除することの方に興味がある。
ほんとうの愛国心というのは、その人間がどんな政治イデオロギーを信じていようが、どんな宗教を信じていようが、どんな道徳律に従っていようが、「同国人である」というただそれだけの理由で「思わず抱きしめたくなる」という感情に依拠しているはずである。
そのような身体実感の上にしか、持ち重りのする愛国心は築かれない。
「非国民」とか「売国奴」というようなフレーズを軽々しく口にする人間は、同胞の数を減らすこと、つまり彼らの愛国心発露の機会を減らすことに熱心なので、私はそういう人間を「愛国者」には算入しないのである。
だから、こんな文言を条例に書き入れたら子供たちの愛国心や郷土愛が高揚するとほんとうに起草した人間が思っているなら、彼の知性にはかなり問題があり、このような条項を書き入れておくことで、学校において「非国民」や「売国奴」のあぶり出しがやりやすくなると思ってそうしているなら、彼は愛国心に大きな問題を抱えている。
だが、これはたぶん「ちょっとアリバイ的に書いてみました」というだけの文言で、次の項目ほどには本気で書かれたものではあるまい。
「グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること」
これはまぎれもなく、彼らのかなり切実な「本音」である。
平たく言えば、「金を儲けさせてくれる人間」がもっと欲しいということである。
企業にたくさんの収益をもたらし、かつ劣悪な労働条件に耐える「人材」に対する欲求は彼らにおいて(そして、一部の府民にとっても)きわめて切実である。
「愛国心や郷土愛」は、たぶん、そのようなハードワーカーたちに「気合い」を入れるためのイデオロギー「小道具」に過ぎないのであろう。
だが、私はこのような功利的なマインドで教育を語ることには反対である。
その所以を述べる。

ここ30年、子供たちの学力はとめどなく劣化してきた。
この事実に異議のある人はいないだろう。
同年齢集団を東アジア諸国と比べた場合、日本の子供たちの「社会的向上心」はすでにはるか下位に位置づけられる。
修身斉家治国平天下というような大ぶりな目標を掲げて生きている子供は私たちのまわりにはもうほとんど存在しない。
「国を背負って立つ」というような気概を持つ子供がいたら、現在の学校環境では気味悪がられるだけだろう。イジメの対象になるかも知れない。
残念ながら、今の日本の教育がここまで劣化したのは、維新の会のかたがたが考えているように、「民の力」が教育行政に及んでいないからではない。
及びすぎたせいである。
子供たちは、いま学校の教師からも親からも塾の教師からもメディアからも、勉強するのは、自己利益の増大のためだと教えられている。
同学齢集団の仲間を蹴落として、相対的な優位に立てば、社会資源の分配において有利になると教えられている。
いい大学に行き、いい企業に入り、いい地位に就き、いい年収を獲得するために勉強するのだと教えられている。
それが常識だと思う人もいるかも知れないが、これは一つのイデオロギーである。
私たちの社会において支配的になったイデオロギーである。
そして、このイデオロギーは、そのような単純な思考と規格化された欲望をもつ労働主体と消費主体の大量供給を切望するマーケットの要請によって生まれたものである。
この教育観の中には「子供を、いずれ共同体を支えることのできる成熟した公民たらしめる」という教育目的はまったく含まれていない。

「公民」というのは「公共の福利を自己利益よりも優先的に配慮する人間」のことである。
これは形成することのきわめて困難な社会的存在である。
マルクスはかつて「公民」(citoyen)を「類的存在」と呼んだ。
孔子は「仁者」と呼んだ。
求めて得がたいものであるが、そのようなふるまいをする人物が一定数供給されないと、社会集団は維持しがたい。
そのために学校はある。
自己利益を専一的に求める人間(マルクスの言う「私人」)を作り出したいなら、学校はもとより不要のものである。
学校に限らず、あらゆる制度資本は不要のものである。
弱肉強食ルールで、欲しいものはすべて力のあるものが占有できるという社会なら「裁き」は要らない。けがをしたり病気をしたりするのは自己責任だから、不運にも心身の能力を損なわれたものは野垂れ死にしろという社会に「癒やし」のシステムは要らない。
同じように、仲間をおしのけて、自分だけ社会的資源の有利な配分にありつきたいと思う人間だけでいいなら、「学び」の場は要らない。
学校は自分は「公民」あるいは「大人」にならなければならないという責務の感覚を(一部の)個人のうちに扶植するための装置である。
一定数の「大人」が存在しないと社会は維持しがたいから、「大人」は制度的に作り出さなければならないのである。
そして、政治イデオロギーと市場は「大人の育成」にもっとも不向きなものなのである。

政治イデオロギーは(維新の会が典型的にそうであるように)徹底的な上意下達の組織を作り上げ、すべての社会成員が上位者の顔色をうかがい、報償を求め、処罰を恐れる「うつろな人」(hollow men)であることを願う。
グローバル資本主義は、すべての労働主体に対して、同じような能力を備え、それゆえ容易に査定可能、格付け可能であることを求める(そうすれば労働条件を限りなく切り下げることができるからである)。
同時に、消費主体としての社会成員に対しては、同じような欲望をもち、同じようなライフスタイルを送り、それゆえ市場が用意する同一商品にあらそって群がる人間であることを求める(そうすれば最低のコストで最高の利益を上げることができるからである)。
政治イデオロギーも市場も、どちらも社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない。
社会成員が幼児的であり、利己的であり、模倣的であり、「うつろ」であることはそうでない場合よりも政治家と資本家に多くの利益をもたらすからである。
政治と市場は子供たちに「成熟しないこと」を要求する。
学校に政治と市場を介入させてはならないと私が言うのはそのためである。
別に政治や市場が本質的に邪悪であるとか有害であるとか言っているわけではない。
政治と市場は社会成員の成熟を望まない。それは先方の事情であって、私がとやかく言う筋のものではない。どうしてもそうしたいというなら、そうされればよい。
私はただ「お願いだから、学校にはこれ以上入り込まないで欲しい」と懇願しているのである。
このまま政治と市場の介入が進めば、学校の本質的機能は遠からず回復不能なまでに破壊されてしまうだろう。
だが、「大人」を作り出す制度を失えば、そのときには、共同体そのものが壊滅してしまうのである。
政治が支配する相手も、市場が収奪する相手もそのときにはもういないのである。
それでは政治家のみなさんもビジネスマンのみなさんもお困りになるだろうから、みなさんの明日のたずきのためにも、司法と医療と学校には口を出さない方がよろしいですよと申し上げているのである。