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国旗国歌と公民教育

 橋下徹府知事率いる大阪維新の会は「君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案」を今月の府議会に提出する。
府教委はこれまで公立学校に対しては「教育公務員としての責務を自覚し、起立し斉唱する」ことを文書で指示してきた。この三月には卒業式の君が代斉唱時に起立しなかったとして、公立中学教諭が戒告処分を受けている。
維新の会は「思想信条の問題ではなく、従来の教委の指導を遵守するように求める条例である」と説明している。府知事は、教育公務員が教委からの指示に従わないのは業務命令違反であり、今後とも指示に従わないというのなら辞職すべきであるという、さらに強い態度を取っている。
国旗国歌問題については、これまでも何度も書いてきた。私が言いたいことはいつも同じである。
国旗国歌は国民国家の国民的統合の象徴である。
そうであるなら、ことの順番としては、まず「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意をもつ国民」をどのようにして創り出してゆくか、ということが問題になるはずである。
もちろん、それ以前に「国民国家なんか要らない」というラディカルなお立場の方もおられる。
「要らない」というのは原理的にはわかる(レーニンを読めば、ちゃんとその理由が理路整然と書いてある)。
でも、原理的に「要らない」というのと、実践的に「じゃあ、なくしましょう」ということのあいだには千里の逕庭がある。
理論的には「なくてもいい」はずなのだが、いきなりなくすわけにはゆかないものはこの世にはたくさんある。
一夫一婦制度も、資本主義経済も、墳墓も、宗教も、賭博も、ヤクザも、ハリウッドバカ映画も、どれも理論的には「なくてもいい」はずなのだが、急にはなくせない。
国民国家も「急にはなくせない」ものの一つである。
もっとよいシステムについての代案が出るまで、これを使い延ばすしかない。
EUが華やかな成功を収めて、ヨーロッパから国民国家というものがなくなってから、「じゃ、アジアでもなくしますか」という議論に入っても遅くはない、と私は思う。
とりあえず国民国家はある。
ある以上、その制度が機能的に、気持ちよく、できるだけみんながハッピーになるように統御することは、私たちの喫緊の実践的課題である。
だから、「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意をもつ国民」を組織的かつ継続的に送り出すことは必要である、と私は考えている。
その任を担うのが、学校である。
だから、国旗国歌について論じるとき、教師としては、何よりもまず国民国家という政治的装置の基盤をなす「公民意識」を子供たちにどう教え、いかにして彼らを成熟した市民に形成してゆくのかという教育の本質問題が論件の中心にならなければならない。
だが、刻下の国旗国歌論を徴する限り、ほとんどすべての論者は「法律で決められたことなんだから守れ」といったレベルの議論に居着いており、「国民国家の成熟したフルメンバーをどうやって形成するか」という教育的論件に言及することはまずない。
いわゆる「国旗国歌法」によって国旗国歌は1999年に定められた。
その法律制定当時の首相であった小渕恵三は衆院本会議で、共産党の志位和夫議員の質問に答えて、こう述べた。
学校における国旗国歌の指導は「国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております」
さらにこう続けた。
「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」。
私はこの首相答弁はごく常識的なものだと思う。私が首相でも、似たようなことをしゃべったはずである。
国旗国歌法制定の趣旨は「国民として必要な基礎的、基本的な内容」の習得である。
それだけである。
だとすれば、「国民として必要な基礎的、基本的な」学習内容とはいかなるものかという教育論がそこから始まるはずである。
始まらなければならないはずである。
だが、始まらない。
始まったのは教員の処分と違憲訴訟だけである。
この法律は公民教育を督励するためのものであり、教員に儀礼的ふるまいを義務化するものでも、個々の教員の教育理念や教育方法を制約するものでもない。私はそう理解している。
というのも、まさに「公民教育はいかにあるべきか」という激烈で生産的な議論が終わりなく現場の教師たちによって、あるいは親たちによって、あるいは教育学者や教育行政官や政治家を巻き込んで続けられ、その過程でひとりひとりの教員が自説を論証するために、多様な教育方法を創案し、工夫することこそが、日本の子どもたちを市民的成熟に導く捷径であると私が考えているからである。
だが、私に同意してくれる人はきわめて少ない。
話を大阪のことに戻す。
維新の会は条例案を思想信条にかかわる問題ではなく、単なる公務員の服務規定違反の問題であるとしている。
だが、政党が発議し、知事が反対者の免職を示唆し、それに抗して「違憲ではないか」と疑義を呈する人々がいる以上、これは政治問題以外の何ものでもない。
これを怠業とか背任とか情報漏洩とかいった公務員の服務規程違反と同列に論じることはできまい。
繰り返し言うが、国旗国歌問題は「公民意識を涵養する教育はどのようにあるべきか」という、すぐれて教育的な問いとしてとらえるべきだと私は考えている。
だから、橋下知事が主張するような施策によって、子どもたちの公民意識が劇的に向上するという見通しが立つなら、私はそれに賛成してもよい。
いや、ほんとうに。
私はそういう点ではきわめてプラグマティックな、計算高い人間である。
日本がそれで「住み易い国」になるという見通しが立つなら、私は誰とだって同盟するし、誰の靴だって舐める。
けれども、残念ながら、橋下知事は国民国家の公民意識を涵養するために学校教育は何をなすべきかという論件には一片の関心も示していないし、それについてのアカウンタビリティも感じていないようである。
橋下知事は着任以来、大阪府の教育関係者を、教育委員会も、現場の教職員もひとしく罵倒することで有権者のポピュラリティを獲得してきた。
その結果、大阪府民の学校制度に対する信頼と期待はずいぶん低下したと思う。
ある意味、これこそ知事の最大の功績と言ってもいいくらいである。
知事の学校不信・教員軽視は有権者である大阪府民のうちにも拡がり、当然のことながら、大阪府の子どもたちにも深く根づいた。
今の大阪府の子どもたちは、おそらく日本でもっとも学校の教師に対する信頼を傷つけられた集団であろう。
それだけの否定的評価にふさわしい出来の悪い教師たちなのだから、彼らが子どもに侮られ、保護者に罵倒されるのは自業自得だ、と。そう知事は言いたいのかも知れない。
なるほど。ほんとうに、そうなのかもしれない。
現に、おそらく多くの府立学校の教師たちは、知事の期待通り、この条例が可決された後、ずるずると教委の指示に従って、不機嫌な顔で起立して、国歌を斉唱するようになるだろう。
だが、子どもたちはそれを見てどう思うだろうか。
おそらく彼らを「処罰の恫喝に怯えて、尻尾を巻いた、だらしのない大人」だとみなすだろう。
たしかにそう言われても教師たちは反論できまい。
だから、子どもがいっそう教師を侮る趨勢はとどめがたい。
この条例がもたらすもっとも眼に見える教育的効果はそれだけである。
だが、教師たちを脅え上がらせ、上司の顔色をおどおどと窺うだけの「イエスマン」教師を組織的に創り出すことを通じて、いったい知事は何を達成したいのか、それが私にはわからない。
たしかに、教師たちをさらに無気力で従順な「羊の群れ」に変えることはできるだろう。そして、そのような教師を子どもたちが侮り、その指示を無視し、ますます教育崩壊を進行させることはできるだろう。
私にわからないのは、それによって子どもたちは学校教育からいかなる「よきこと」を得るのか、それによって子どもたちの公民意識はどのように向上するのか、ということなのである。

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2011年05月17日 18:46 に投稿されたエントリーのページです。

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