浜岡原発停止について

2011-05-08 dimanche

MBSの「辺境ラジオ」も今回で4回目。
不定期収録、収録時間毎回違う、放送時間毎回違うという、いかにもラジオ的にカジュアルな番組である。
精神科医名越康文先生、MBSの西靖アナウンサーと僕の三人のthree-man talk をガラス窓の向こうから伊佐治プロデューサーが顔を赤くしたり青くしたりしながら見ているという四人組ベース。
今回は「震災」テーマでのトークである。
菅首相が浜岡原発の停止を要請したが、それについての評価から話が始まった。
名越先生も私も、これは官僚や電力会社への根回しが十分にされた上での結論ではなく、総理のトップダウンでの「私案」に近いのではないかという意見だった。
浜岡原発の運転の可否についての議論はもちろん専門的な機関で行っているのだろうが、結論はわかっている。
「安全性に問題はない」である。
でも、東海大地震が起きて、放射性物質が漏出するような事態になったら、政府機関も中電の経営者も原子力工学の専門家たちも、口を揃えて「想定外の事態だった」と言うに決まっている。
福島に続いて静岡で原発事故が起きたら、もう「日本というシステム」に対する国際社会の信用は回復不能のレベルにまで下がるであろう。
メーカーへの送電や、株主への責任や、天然ガスの手当てといったレベルでの不安はあるだろうが、それは首都圏が福島・静岡の事故に挟撃された場合に日本が失うものとは比較にならない。
だから、菅首相の判断を私は支持する。
官僚たちはさぞやご不満であろうし、撤回させるために、いま全力を尽くしているところだとは思うけれど、民意が「反原発」に完全に傾いた今となっては、もう原発推進に舵を切ることはできないだろう。

それにしても、高い確率で大地震が起こる地盤の上に原発を建てた人間はいったい何を考えていたのか。
何も考えていなかったと私は思う。
「2000年問題」というのがあった。
2000年になるとコンピュータが誤作動を起こすかもしれない。どのような事故が起きるか想像もつかない・・・と1999年の12月31日にはみんなどきどきしていた(さいわいたいしたことは起こらなかった)。
なぜこんな問題が起きたかというと、コンピュータの設計をしていた人たちが「そのうち紀元2000年が来る」ということを考えていなかったからである。
もちろん、彼らだって「そのうち紀元2000年が来る」ということは高い確率で想定していたはずである。
しかし、そのことを考えに入れると、コンピュータの設計を変えないといけない。年号表示を2桁増やすことで失われるメモリー量が「もったいなかった」ので、「2000年は、2000年までは、来ない」ということにして(これは命題としては正しい)、考えるのを止めたのである。
それと同じである。
大地震は、大地震が来るまでは、来ない。
命題としては、正しい。
だが、そこから「大地震が来るまでは、大地震のことは考えないでもよい」という実践的命題を導くことはできない。
こういう発想をする人を私が好まないのは、もちろん「無責任」ということもあるけれど、それ以上に「どうせ来るなら、そのときは破局的な事態になった方がいい」という無意識的な願望を抑制できなくなるからである。
「姉歯事件」をご記憶だろうか。
構造計算をごまかして、耐震性の弱い建築物をどんどん建てた人たちがいた。
彼らが単にコストカットして金儲けをしたかった、というのならそれほど罪はない(あるけど)。
でも、彼らは地震が起きて、適正な構造計算をした建物だけが残り、虚偽の構造計算をした建物だけが選択的に倒壊するという事態を怖れた。
その場合にのみ彼らの悪事は満天下に明らかになるからである。
それゆえ、彼らはこう願った。
もし地震が起きるとしたら、中途半端な規模のものではなく、すべての建物が倒壊するようなものでありますように、と。
彼らの犯罪は「自分たちの悪事が露見しないためには、すべての人が破局的な目に遭うことが必要である」というかたちで構造化されていた。
それが何より罪深いと思う。
そのためには彼らは朝な夕なに「どうせ来るなら、日本列島が全壊するような地震が来ますように」と祈る他ないからである。
祈り(というより呪い)の効果を軽んじてはならない。
活断層の上に原発を建てた人たちは地震については何も考えていなかった(というより、考えたくなかった)。
もし地震について何かを考えていたとしたら、姉歯たちに近いことだろうと思う。
「どうせ地震が来て、原発事故が起きるなら、日本列島が全壊してしまうような規模の破局の方がありがたい」と。
というのは、そのとき(つまり、『北斗の拳』的世界においては)、彼らの旧悪を追求するような司直の機能はもう日本列島上には存在していないはずだからである。
だから、無意識的に彼らは活断層の上に原発を建てることを選んだのである。
私はそう思う。
安全に対する手立てを講ずることを怠る人間は、自分が「なすべきことを怠っている」ということを自覚している。
だから、必ず、「どうせ何かが起きるなら、安全について手立てを講じた人間も、手立てを講じなかった人間も、等しく亡びるような災厄が訪れますように」と祈るようになる。
それはその人と属人的な資質とは関係がない。
夏休みの宿題を終えないうちに8月31日を迎えた子どもが、「学校が火事になればいい」と祈るのと同じである。
別にそう祈る子どもが格別に邪悪なわけではない。
宿題をしなかった子どもは必ずそう祈るようになる。
人間の無意識的な祈りと呪いの力を過少評価してはならない。
だから、浜岡原発を停止することに決めたのはよいことだと私は思う。
繰り返しいうように、私は原子力テクノロジーに対しては何の遺恨もない。
テクノロジーは価値中立的なものである。
テクノロジーに良いも悪いもない。
でも、愚鈍で邪悪な人間たちに原子力テクノロジーの操作を委ねることには反対する。
そして、「愚鈍で邪悪な人間たち」というのは端的に「人間というもの」と言うのとほとんど同義なのである。