4月11日から5月5日までの日記

2011-05-06 vendredi

4月10日からブログを更新していない。
めちゃくちゃ忙しくて、書けなかったのである。
ブログを書くのは、朝起きてすぐ、午前中に書き終えてしまうのだが、このひと月、朝起きてすぐに仕事に出かけるか、メールの返信をするだけで午前中が終わってしまうか、あるいは前日(あるいは前々日)締め切りの原稿を起きると同時に書き出すか、具合が悪くて寝ているか、のいずれかであったために、ついに一日もブログ更新ができなかった。
私にとってブログ日記を書くというのは、単に備忘録にとどまらず、資料のアーカイブであり、また萌芽状態のアイディアを転がすための実験室であもあり、ここに書いたものをコンピレーションして出した本も数知れず。たいへんにたいせつな場であり、一月も何も書かずに放置していたというのは、かつてない。
それだけ生活のペースがout of control になっていたということである。
自分の足元を見る暇もない生き方というのは、よろしくない。
この期間に書き飛ばしたものについても、クオリティ的にはずいぶん不満である。
これから出る自分の本に呪いをかけるようで気の毒なのだけれど、あと一回推敲する時間があれば、もう少しリーダブルなものにできたのにと思うとまことに心残りである。
というわけで、4月23日に骨折してから、深く反省し、もうオーバーペースで仕事をするのは止めにした。
「断筆宣言」はもう「禁煙宣言」と同じくらいしたが、ほんとうにもう「頼まれ仕事」は心を鬼にして断らなければいけないと、この十年で十回目くらいに自戒。
とりあえず、4月10日からあとのできごとについて備忘のために記す。
4月11日(月)
関西テレビでコンプライアンス研修会。
テレビを見ない人間なので、テレビ局に呼ばれて何を申し上げてよいかわからないままに、マスメディアの社会的責務について、一般論を申し上げる。
私の話を聴いて、かなり怒っている人もおられたし、深く頷いている人もおられた。
いろいろ。
関西テレビは例の「あるある大事典」問題で、総務省に睨まれ、マスメディアの仲間たちからも集中攻撃を食らったというトラウマ的体験があり、「マスメディアって、あまりにひどいなあ・・・」という(常識的)実感を持っている。
その点が関西テレビの強みになるのかも知れない(わかんないけど)。
4月12日(火)
東京へ。
昭和大学で理事会。
この4月に昭和大学の理事を拝命することになった。
昭和大学の理事長は小口勝司くん。日比谷高校のときのお友だちである。「かっちゃん」という愛称で、このブログにも何度か登場している。
そのかっちゃんから「理事やって」と頼まれたので、お引き受けした。
医療と教育は社会的共通資本の根幹をなす制度であり、いずれも政治と市場とマスメディアに挟撃されて、この30年間孤立無援の状態で、「癒し」と「学び」のためのフロントラインを守ってきた。
医学教育ということは、いわばその両方の負荷が集中的に加わった現場ということである。
最初の理事会の最後に、震災への救援活動についての短い報告があった。
昭和大学は3月11日の午後8時にはもう救援活動をスタートさせて、医療チームの第一陣を送り込んでいる(理事会時点までに7チーム、のべ150人)。
地方自治体からの要請があったわけではないし、厚労省からの指示があったわけでもない。
誰からも要請がないままに自己決定自己責任での医療チーム派遣である。
派遣される医師、看護師、スタッフたちもすべて自発的に手を挙げた希望者たちである。
「医療者というのは、そういうものだから」とかっちゃんは淡々と言っていた。
95年の阪神大震災のときには、行政からの公式指示を待っているうちに、医療チームの派遣が遅れたことを深く反省して、災害時には「行政からの指示がなくても、とにかく派遣する」ということにしたのだそうである。
「ヒポクラテスの誓い」の方が自治体の要請に優先するのである。
メディアは支援の側のサプライと被災者の側のニーズの「ミスマッチ」について、困ったものだと渋い顔をしている。
そんなことでわざわざ渋い顔をすることはないだろうと私は思う。
平時においてさえ需給関係は原理的にミスマッチなんだから(すべての需給関係が一致することを「欲望の二重の一致」と呼ぶが、これは経済学では「ありえないこと」の同義語である)。
「ニーズの確定を待たずにサプライが先行する」ことでよいと私は思う。
それを嫌うから「300枚の毛布が送られてきたが、避難所に500人いたので、不公平にならないように、一枚も配布しなかった」というような事例が起きるのである。
需給の一致がなければ、贈与は成立しないというのは幼児の発想である。
4月13日(水)
午後、東大の本郷キャンパスにて、柴田元幸さんとNational Story Project Japanの単行本のための対談。
日本人の書く「物語」と、アメリカ人の書く「物語」のあいだの本質的な差について語る。
たいへん面白い対談でしたので、本出たらみなさん買ってね。
それから立川に移動して、朝日カルチャーセンターにて平川くんと対談。
原発のお話。前の週の中沢新一さんをまじえての鼎談の続き。
池上先生がおいでになったので、さっそく身体を見てもらう。
たいへんよろしくないということで翌日に診療をお願いする。
平川くんの車で等々力まで送ってもらい、等々力泊。
4月14日(木)
朝、アシュラムノヴァへ。池上先生に身体の歪みを補正していただく。だいぶ悪いそうである。とほほ。
五反田へ移動して、成瀬雅春先生と対談本のための最後の対談。
これはもうすぐ出ます。
いったん学士会館に戻って、寸暇を惜しんで寝る。
15分ほど寝たところで、松井孝治さんがお迎えに来る。
東京財団というところで、講演とディスカッション。
加藤秀樹さんと松岡正剛さんがコーディネイターで、学者、民主党自民党の政治家のみなさんが十数名ほど。
こちらが知っているのは松井さんと、松本剛明さんと、先日ご飯をご一緒した古川元久さんだけ。ほかに新聞やテレビで見知った顔(樽床伸二さん、河野太郎さん)も。
原発問題に露呈した日本のエリートたちの無能力について、これをどう補正すべきかについて私見をご提言申し上げる。
そのあと10時まで、そのテーマでディスカッション。
帰りぎわに細野豪志さんが飛び込んで来る。
「原発は供養する心がけでやります」といううれしいお言葉を頂く。
ぐったり疲れて学士会館で死に寝。
4月15日(金)

新幹線で帰郷。新大阪で途中下車して歯医者へ。
抜糸だけなので、すぐ終わる。
4月16日(土)
合気道。すごい人数。算えたら、60人近い。
夕方神吉くんたち来る。
重要なご報告。
祝杯を上げに奥さんもいっしょに四人で並木屋へ。
重大なご報告でどっと疲れたらしく、神吉君カウンターで居眠り。
ずいぶん緊張してたんだね。お疲れさまでした。
4月17日(日)
かなちゃんの合気道芦屋道場の十周年演武会。
お稽古してから、30分ほど説明演武。
芦屋道場は道場生のべ160人に及ぶそうである。
10年続けるというのは、たいしたものである。
ご協力くださったみなさん、ありがとう。
それから芦屋で多田塾甲南合気会運営委員会。
会員数が100名を越し、秋からは専用道場が出来て、毎日稽古という体制になるので、組織改編を行わなければならない。
事務方を預かってくださるみなさんと運営委員会を定期的に開いて、秋以降の運営体制について相談することになった。
月謝をどうするか、減免措置をどうするか、道場の掃除をどうするか、法人化の手続きをいつ始めるか・・・などなど私の苦手とする経営問題を優秀な運営委員のみなさまに考えてもらうのである。
4月18日(月)
朝、三宅先生のところ。それから大学へ。名誉教授授与式。それから杖道のお稽古。
4月19日(火)
お休み、終日原稿書き。
4月20日(水)
10時から上棟式。
地鎮祭は神主さんが来たけれど、上棟式は棟梁が差配する。
神事も、餅撒きもはじめてのことである。
光嶋くんの「法被と地下足袋」姿がけなげでありました。
詳細は光嶋くんのブログhttp://www.ykas.jp/jp_news.htmと中島工務店のブログhttp://www.npsg.co.jp/residences/reports/cat36-1.htmlをご覧ください。リアルタイムで工事の進行状況が報告されております。
お忙しい中、おいでいただきましたみなさまにお礼申し上げます。
4月21日(木)
東京へ。第三回伊丹十三賞授賞式へ。
第一回は糸井重里さん、第二回はタモリさん、そして第三回の受賞ということで、「この文脈は何を意味しつつあるのか?」
よくわからないですね。
選考委員の周防正行、中村好文、平松洋子、南伸坊のみなさん。事務局の伊丹プロの玉置泰さん、松家仁之さん、そして宮本信子さん(銀幕のままの笑顔)とご挨拶。
周防さんは奥さまの草刈民代さん(おお、オーラが)もご同行。
中村さんから盾を頂き、平松さんから「そ、そこまで言っていただくと身の置きどころがありません」的授賞理由のスピーチを頂き、宮本信子さんから副賞の賞金を頂く。
それから謝辞を申し上げて、あとはパーティ。
久しぶりに橋本治さんとお会いする。一時は20キロ痩せられたそうだけれど、だいぶ戻られたようで、ほっとする。病み上がりの身体をおして来て頂いて、ほんとうに感謝です。
糸井重里さんとも初対面。なんだか初対面のような気がしないのは橋本さんと中沢新一さんと一緒だったから。
うちの光嶋くんが「ほぼ日」でお世話になるので、どうぞよろしく。
あとはじめてお会いしたのは、岸田秀先生。
岸田先生とは対談本を出す企画がある。ぜひ伊丹十三の話も聞きたいものである。
サバティカルからお戻りの加藤典洋さんともお久しぶりにご挨拶する。加藤さんとの対談本はどうなったのかしら・・・
びっくりしたのは仙谷由人さん。来て、握手して、ぴゅっと帰って行きました。
鈴木晶さん、松井孝治さん、小堀さん、のぶちゃん・かなちゃん、矢内さん、仲野センセ、ドクター、平尾さん、大迫くん、阿部くん、石やん、母上、兄上、シンペーくん、るんちゃん・・・とても数え切れないけど、みなさん、お忙しい中お運びいただきまして、ほんとうにありがとうございました。
二次会は新潮社の足立さんが仕切ってくださって、編集者主体のパーティ。乾杯のご発声は関川夏央さん。心のこもったお言葉ありがとうございました。鶴澤寛也さんが駆けつけて一節弾いてくれました。
三島さん、安藤さん、鈴木さん、三野さん、野木さん、加藤さん、岡本さん、大村さん、白石さん、井之上さん、兵庫さん、大波さん、鳥居さん、杉本さん・・・これまでいっしょに仕事をした編集者の方々、ほとんどが顔を揃えてくれました。
途中からさすがに疲れて、中村好文さん、平松洋子さん、南伸坊さんとのんびりした話をする。平松さんと橋本麻里ちゃんが長いお知り合いと聞いてびっくり。南伸坊さんとは養老先生つながりでぐるりと円環が繋がる。
るんちゃんと連れ立って夜の六本木を歩いて帰る。
はふ~。
4月22日(金)
朝10時から朝日新聞で紙面審議会。
もうさすがにへろへろ。
それでも最後のエネルギーを振り絞って、朝日の紙面についてご意見を具申する。
新聞の文体の定型性については『街場のメディア論』にも書いたとおり、書いている記者自身の「身体実感」が紙面に反映していないことによってもたらされている。
デスクが繰り返し修正しているうちに、記者たち全員が「同じような語り口」になってしまっている。
その結果、一部の記者たちは「記者自身があたかも地声で語っているかのような文体」という定型さえ身につけてしまう。
「定型に落とし込まれた個性」に対する嫌悪が人々を新聞から遠ざけていることについて、記者たちはもう少し厳粛になるべきだろう。
4月23日(土)
そして、疲れ切って帰ってきたところで、合気道の稽古の前に更衣室で足を滑らせて骨折。
でも、こうやってそれまでの10日間を備忘録に書き出すと、「骨折くらいで済んでよかった」と思う。ほんとに。
痛みをこらえつつ2時間半稽古指導。
稽古後、学長対談のゲストに神戸女学院大学に来ていた福岡伸一ハカセを足をひきずりながらお迎えにゆく(この時点ではまだ「捻挫」だと思っていた)。
飯謙学長をまじえてしばらくおしゃべりしてから、福岡ハカセを三宮のKOKUBUにお連れする。
前週も光嶋くんをお連れしたので、二週連続のKOKUBUです。
福岡ハカセとたいへん愉快なひとときを過ごしてから、足をひきずって家に帰る。
4月24日(日)
例会。
足は痛いけれど、3戦して2勝。着実に勝率アップ。
4月25日(月)
朝起きたらもう動けない。
三宅先生のところに這うようにして行って、診断を仰ぐと「第五中足指ぽっきり骨折」とのご診断。全治3週間。
ぐるぐるにテーピングして、松葉杖をいただいて帰る。
すぐにあちこちに連絡して、今後に2週間の全予定をキャンセル。
昼から死に寝。
4月26日(火)~29日(水)
三宅先生のところに行ってテーピングしてもらう。家で死に寝。ときどき起き上がって安藤さんのゲラを直す。
4月30日(土)
下川先生のところに、新人ひとりをご紹介しにお連れする。
ひさしぶりに『安宅』の稽古。仕舞の稽古はもちろん不可。
夕方から青木くんのところでたこ焼きパーティ。
歩くのがしんどいのでパスしようかなと思っていたら、光安さんがお迎えに来てくださいました(泣)。
美味しいたこ焼きと部長のサラダ、光安さんのゴルゴンゾーラのペンネなどばりばり食べて、ちょっとしあわせになる。
5月1日(日)
ほんとうは丸亀で講習会があるはずだったけれど、家でサバ眼寝。
5月2日(月)
終日サバ眼寝。夕方光嶋くんが来て、和楽で打ち合わせ。
5月3日(火)
灘高文化祭で講演。これは家からすぐだし、バイクで行けるので、三節棍みたいな杖(父の形見)を突きながら教壇に登って、高校生たち相手に「諸君!」と獅子吼すると、まるで『セント・オブ・ウーマン』のアル・パチーノみたいでかっこいいかも・・・と思っておでかけ。
「次世代に望むこと」というお題で、東郷平八郎と『安宅』の話をする。
高校生諸君はまじめに聴いてくれておりました。
都立大仏文時代の後輩の松本雅弘くん(鳥取大学)のご令息が偶然にもお二人とも灘高生で、「息子の文化祭のパンフレットをぱらぱら見てたら、ウチダさんが講演やるって書いてあったので・・・」おいでになる。
講演後、久闊を叙す。10年ぶりくらいかな。
今度の次郎くんのところのヒロ子さんの七回忌にもお見えになるそうである。
どうも松本くんとは法事がご一緒ということが多い(故・岸本浩を「送る会」のときも、松本くんと二人だった)。
そういえば、難波江和英さんは岸本の神戸時代の同人仲間で、岸本が死んだあとしばらくして、二人とも相次いで神戸女学院大学に着任し、しばらくして友だちになってから、「死せる共通の友人」がいることを知ったのである。
死者はしばしば「存在するとは別のしかたで」、残された人間の生き方に影響を与える。
5月4日(水)
恒例の「美山町の小林家に山菜てんぷらを食べに行く会」。
去年から光嶋くんが同行している。
光嶋くんはそのあと仕事の打ち合わせで美山町を前後3回訪れているので、もう小林家のみなさんとはすっかり顔なじみである。
今回は『芸術新潮』の取材も兼ねているので、編集の前田さん、カメラの筒口さん、そして足立さんがご一緒。
わらびのおひたし、筍のキッシュ、山菜てんこ盛り冷や奴、そしてコシアブラ、タラ、ウド、タケノコの天ぷら・・・ああ、書き出しているだけでくらくらしてくる。
天ぷらとお酒があまりに美味しいので、取材組5人は異常にハイになって、途中までぜんぜん仕事にならない。
夜がだいぶ更けてから、由紀ちゃんとご夫君の菊池くんが林業の現状について熱く語り出して、ようやく取材らしくなってきたが、その前の与太話盛り上がり過ぎて、ウチダはすでに酔眼朦朧。
5月5日(木)
10時ごろ起きて、例の如く小林家のみなさんを相手に、頭も尻尾もないようなおしゃべり。この時間が一番愉しい。
美山町の宿屋に分宿していた『芸術新潮』組が合流して、まずは記念撮影。それから一同揃って井上さんが土を掘っている現場へ。
美山の土は粘度が高く、また色味もよく、これを漆喰に混ぜる。
すると、美山杉の柱と、その杉を育てた土の壁が隣り合うことになる。
オーストリアから切り出した集成材に中国から輸入した漆喰が並んでいるのとは、家の表情が違ってくるのである。
どこが違うということは数値的には言えないけれど、違うものは違うのである。
お好み焼きと猪肉を囓りながら、そのまま小林家の台所で左官談義。
職人の人の話は、ほんとうに面白い。
日が傾いてきたので、小林家のみなさんに別れを告げて、BMWで新緑の由良川べりのワインディングロードを走り抜ける。
ここは私のもう一つのふるさとである。
淡路島のタチバナさんのところがいずれ「第三のふるさと」になるのだと思う。
今年こそ行かないとね。