「疎開」について書いたのはもう2週間以上前のことだ。
そのときにいずれ政府や地方自治体が主導するかたちで組織的な疎開が進むだろうと書いた。
でも、そうなっていない。
枝野官房長官は18日の段階で記者会見でこう語っている。
「集団疎開の問題が県知事レベルで出てきている。疎開という言い方が正しいのかはわからないが、妊婦や高齢者など災害弱者とも言うべき人たちがいて、その人たちが当面の生活をおくるために、全国各地の人に協力してもらうということは具体的に考え始めているところ。」
この段階としては適切な発言だったと私は思うが、このあと、集団的な疎開についての積極的な提言があったことを知らない。
同じ頃、私のところへ「疎開論を撤回せよ」という声が集中的に寄せられた。
理由は「首都圏からの疎開」が大規模に実施されると、ただでさえ低迷している消費活動が鈍化し、日本経済に悪い影響を与えるからだという。
なるほど。そういう考え方もあるのか。
おっしゃるとおり、日本経済は東京一極集中構造である。
東京での経済活動が低迷すると、列島全体が地盤沈下するように制度設計されている。
現に、石原慎太郎も東国原英夫も「東京が日本を牽引しなければ、日本に未来はない」という、似たような言葉づかいで首都の重要性を強調していた。
だが、一都市が機能停止すると、国家全体が機能停止するようにシステムが設計されているとすれば、それは制度設計そのものが間違っているということである。
東京がシステムダウンしても、列島全体としてはただちに「東京抜き」でも社会システムが継続できるようにシステムは設計されるべきなのである。
リスクヘッジというのは「そういうもの」だ。
今回の原発事故で私たちが学んだ(と過去形で言えるとよいのだが)もっともたいせつな教訓の一つは、私たちの国のエスタブリッシュメントは「リスクヘッジ」ということの重要性をあまり理解していない方たちだったということである。
外交における安全保障を「日米安保一極集中」で処理してきたことを「成功体験」として総括した人たちは、無意識のうちにそれと同じように「すべての卵を同じ籠の中に入れる」方法がいちばん効率的で安全だと信じ込むようになった。
原発への依存も、資源の東京一極集中も、「日米安保一極集中」をモデルとして、社会制度を全部設計しようとしてきたこの30年間ほどの日本人の無意識の選択の結果のように私には見える。
私はおもに教育の現場に身を置いて、そこから発言してきたが、そこで繰り返し申し上げたことは「教育理念や教育方法は均質化・規格化すべきでない」ということである。
子どもたちを標準化して、「馴致しやすい市民」を人形焼きのように叩き出すことは平時においてはそれなりに賢明な選択である。
社会成員の全員が同じような価値観をもち、同質の能力をもち、欲望を共有する共同体では成員全員を1番からn番まで「格付け」することができるからである。
その「ポジション」に従って資源配分する。
それがグローバリズム的なフェアネスである。
けれども、全員が同質的であり、数値的な能力差だけがある「格付けしやすい社会」の最大の欠陥は、「想定外」の入力に対応できず、わずかな躓きで崩壊することである。
私たちの国の最大の強みは「付和雷同」という国民性格である。
「一億一丸となる」という点において、これほど凝集力のある国民国家は他に見出しがたい。
けれどもそれは同時に最大の弱みでもある。
生物学的多様性を確保できないからである。
みんなが同じ方向を向いて進む先に断崖があれば、全員ぱたぱたと墜落死する。
そのとき、さしたる理由もなく、「オレはそっちに行きたくないね」と別行動をとる個体が一定数いれば、集団は全滅を回避できる。
生物学的多様性というのは「そういうこと」である。
システムの適所に「付和雷同しないもの」をつねに一定数確保しておくということは、「システムクラッシュの回避」という点において必須の配慮なのである。
そのことを私たちの国の「秀才」たちはすぐに忘れてしまう。
というか「秀才」というのは定義上、「システムの平時」において能力を最大化するもののことであり、彼らに「有事対応能力」を求めること自体が間違っているのである。
そのような能力は別のタイプの人間たちに委ねなければならない。
その「別のタイプの人間」の育成と確保ということを、私はこれまで教育論の中でもときどき申し上げていたのであるが、誰も取り合ってくれなかった。
というわけで、もう一度申し上げるが、「有事対応」モデルというものが存在する。
宗教や武道は、そのような「有事対応モデル」を確保して、共同体を生き延びさせるという機能を久しく担っていたのである。
有事対応モデルというのは、ひとことで言えば、「どうしていいかわからないときに、どうしていいかわかる人間」のことである。
これについては、前に『亡国のイージス』という映画を見たあとの感想に書いたことがある。それを再録する。
『亡国のイージス』では、真田広之の演じる中間管理職サラリーマン的な先任伍長がファナティックで病的な愛国少年兵とコンビで日本を襲った軍事的危機を救う。
真田広之が敵にむけてためらわず銃撃する少年兵をたしなめて言う。
「撃つ前にためらうのが人間だろう。撃つ前に考えろ」
その忠告を受け容れて、動作に一瞬の「ためらい」を挟んだ少年兵は、こんどは「ためらわない」テロリストに撃ち殺されてしまう。
真田は「言われた通り、撃つ前に考えた」とつぶやく瀕死の少年兵にこう言う。
「考える前に考えるんだ」
よいことばである。
最適な戦略的選択をためらわない冷血さと同胞に対する制御できないほどの愛情という矛盾を同時に引き受け、それに引き裂かれてあることを常態とすること、それが「戦争ができる人間」の条件である。
その「引き裂かれてあること」を徹底的に身体化するというのが、「考える前に考える」ということである。
私は別のところで、「考える前に考える」能力を「先駆的直感」と言い換えたことがある。どちらも同じことである。
別に魔術を使うわけではない。
まだ「情報」というはっきりした輪郭をとらないノイジーな入力を「シグナル」として解読できる力のことである。
単純に言えば、「危険に対するセンサーの感度を上げる」ということである。
人間は生物である以上、自分の生存にかかわる危険に対しては程度の差はあれ、「ざわざわ感」を覚える。
それは数値的・外形的には表示されない。「データとして読まれる」閾値にまで達しないからである。
けれども、データとかエビデンスとかいうのは、尽きるところ「計測機器の精度」の産物である。
計測機器のメカニカルな精度が上がれば、「それまではエビデンスと認知されなかったもの」がエビデンスとみなされる。
エビデンスについて「存在する・しない」を論じるのは本質的にはナンセンスなことである。
エビデンスというのは、「その時点での手持ちの計測機器の精度の関数」に過ぎないのだから、エビデンスは本来「感知できる・できない」という言葉で語るべきなのである。
感知できる人間に感知できることが、感知できない人間には感知できない。
それは単純にメカニズムの精度の差に過ぎない。
「数値的に考量できるものだけが存在するものであり、数値化できないものは存在しないものだ」と思いなすのは、「エビデンスが検知できないのは自分の手持ちの計測機器の性能が低いからではないか」という自省の習慣をもたない怠惰な知性である。
そのような人間は「想定外」の事態の出来に対応することができない。
話を戻す。
危機の経験から私たちが学ぶべきなのは、「どうすれば危機は避けられたのか」という条件法過去的な吟味である。
私の答えは、繰り返し申し上げているように、「『他の人間には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、感知できないものが感知できる人間』を適所に配備し、有事においてはその知見を重んじる」ことができるようにシステムを設計する、ということである。
つまり、「秀才以外の人間」を一定数、私たちの社会機構の中枢に置くということである。
ある種の企業には新人採用において「バカ枠」というものが設けられているそうである。
言葉はあまりだが、言いたいことはよくわかる。
他の人間とは違う価値観をもち、違う視点、違う射程でものを眺め、誰も思いつかないソリューションを思いつく「変人枠」はどのような集団でも制度的に確保されていなければならない。
それは「政治的正しさ」でも「博愛主義」でもなく、共同体を存続させなければならないという剥き出しのリアリズムが要請するものなのである。
繰り返し書くが、危機に対する緊急避難的な手立ては、それが「正しい選択だった」というエビデンスが示されたときは、もう選択肢には残されていない。
(2011-04-04 11:44)