コピペはダメだよ、について

2011-01-09 dimanche

卒論を読んでコメントをつけて返すという仕事をしている。
疲れる。
ほとんど同じことをどの学生についても書いているからである。
「出典の書誌情報を明記しなさい」
この二年間、ことあるごとにゼミで言っているのだが、ほとんどの学生はそのほんとうの意味は理解していない。
それをたぶん「ズルをしてはいけません」という警告のように聴いているのだろうと思う。
「カンニングするな」とか「授業中私語をするな」とか「教室でカップ麺を食べるな」というような注意と同列のものだと、たぶん思っている。
しているところを見つかったら叱られるけれど、見つからなければどうってことない、とたぶん思っている。
それでいったい誰が困るというのよ、とたぶん思っている(キムチ味のラーメン臭が教室に漂っていると、次の授業に教室を使うものは苦しむぞ)。
自己利益の追求を優先させることは悪いことではない、と教えられてきたからである。
自己利益の追求がルールに違反する場合には、得られる利益と違反のペナルティを考量して、ペナルティが多そうな場合には利益追求を自制する、というのが「合理的判断」だと思っている。
ネット上で公開されているテキストをあれこれとコピペして卒論を書くということは、「時間とエネルギーの節約になり、わずかな知的投資で大きな利益(卒論8単位)をゲットできる」効率的なふるまいである。
それに対するペナルティは「当該科目を0点とする」、つまりこの3月には卒業できなくなり、内定した就職先をあきらめて留年しなければならないということである。
見つからなければ、ラッキー。見つかればアンラッキー。
この「さじ加減」がむずかしいのよね・・・と熟慮されているのかも知れない。
困ったものである。
つねづね申し上げているように、出典について書誌情報を明記するのは、「私は先人からの『パス』を受け取った」というシグナルである。
先行研究は贈り物である。
私は贈与を受けた。
それゆえ、反対給付の義務を負っている。
けれども、贈与は贈与者にそのまま送り返すことができない。
それは「次の受け取り手」に向けてパスされなければならない。
贈与されたものに対する反対給付義務の遂行とは、「等価のものを贈与者にお返しして、チャラにする」ことではない。
反対給付義務は、「自分自身を新たに贈与者として立てる」というかたちで遂行するしかない。
自分自身が新たに贈与者となることによってはじめて、被贈与者であることの負債から解放される。
先行研究に対する負債は、自分自身が次の世代に知的な贈り物をなすことによってしか解消されない。
コピペ論文の本質的な瑕疵は、そこに書いてある情報や数値が間違っているからではない。推論が間違っているからでもない。
ちゃんと「正しいこと」が書いてあり、場合によっては、けっこうきれいにまとめてある。
でも、そこにはそのようなものを贈ってくれた先人への「感謝」の言葉が書き落とされている。
「私はたしかにパスを受け取りました(ありがとう)」という言葉が書かれていない。
その論文を、すべて自分がゼロから作り上げたオリジナル作品であるかのように「誤認」されるリスクに対して、防御の手立てが取られていない。
「パスをありがとう」と書いていないということは「私はこの論文について誰の恩恵もこうむっていない」という宣言をなしたに等しい。
書き手はそれを誰かへの贈りものに仕上げるという義務を免ぜられる。
全部自分で作ったものであれば、誰にも借りはない。誰にもそれをパスする義務がない。
そして、「誰にもパスする義務がない」という権利事実を人々の前で明らかにするにはきわめて雄弁な方法が一つある。
一つだけしかない、と言い換えてもいい。
それはみんなの目の前でそれを叩き壊してみせるということである。
「これは隅から隅までオレのものだ」と言う人間だけが、それを叩き壊す権利を持っている。
というのは、「パスされたもの」について、私たちはそれを毀損する権利を持っていないからである。
私たちはそれをどんな犠牲を払ってでも、毀損することなく、次の「レシーヴァー」に手渡さなければならない。
だから、「これは誰からもパスされたものではなく、隅から隅までがオレの私物である」とあくまで言い張ろうとする者は、いずれそれを衆目の前で、たたき壊し、踏みにじり、ドブに蹴り棄ててみせるパフォーマンスを強いられるようになる。
ほんとうにそうなのだ。
コピペ論文の本質的瑕疵はそこにある。
どれほど巧妙に書かれていたとしても、みごとな仕上がりでも、「こんなもの、オレにとってはただのゴミにすぎないよ」という言葉とともに足蹴にされる可能性をコピペ論文はあらかじめ刻印されている。
「こんなもの、ただゴミさ」というささやきは、書き手自身の無意識を貫いて、論文の表層に露出する。
書き手がどれほど知的に卓越していても、巧妙な文章家であっても、「剽窃」したものは、その書き手のポテンシャルをもってすれば書かれたはずの作品よりもレベルの低いものになる。
必ず、なる。
それは書き手自身がその作物ができるだけすみやかに誰にも顧みられなくなることを願っているからである。
というのも、査読者が一度読んで採点すると同時に賞味期限が切れ、以後は情報として無価値なので、誰にも読まれないことが「剽窃論文」にとってもっとも安全なポジションだからである。
剽窃論文のきわだった特徴は「ちょっと遅れた速報性」にある。
二三年前の「最新データ」や数値や仮説が紹介してある。
嘘をつく人間が、そのときだけ少し早口になるように、剽窃をする人間は、賞味期限の短い学術情報を好んで引用する。
それによって、自分の論文の「余命」を短くしようとするのである。
自分自身の作物ができるだけ早く死ぬことを、できるだけ少人数にしか読まれないことを願うという倒錯が剽窃論文の本質的瑕疵である。
それは自分自身に対する呪いである。
剽窃者は自分自身の知的なアクティヴィティが質の悪いものであることを切望するようになる。
何度も書いていることだが、自分が自分にかけた呪いを解除することはきわめてむずかしい。
出典についてはきちんと書誌情報を明記し、「贈り物をありがとう」と記載せよと私がうるさく言うのは、そのような気遣いをしたものは必ず読者への「贈り物」になるようなものを書こうと願うからである。
自分の作物ができるだけ長く読み継がれ、できるだけ多くの読者を得ることを願うようになるからである。
その願いが論文のクオリティを押し上げる。
アカデミアの目的は、学生たちに自分の知的なポテンシャルに気づかせ、それを高め、活性化する方途を発見させることである。
そのためには何を措いても「贈与されたものを次の受け取り手にパスする」というふるまいを会得してもらわねばならない。
パッサーとなること、それが人間の知的なパフォーマンスを最大化させる。
「ありがとう」という言葉をまず口にすること。
それは倫理のレベルの話ではない。
知性の機能にかかわる、ほとんどメカニカルな話なのだ。
その理路を教師は卒業の間際まで、寸暇を惜しんで、教え続けなければならない。