MBSの「辺境ラジオ」で名越康文先生、西靖アナウンサー、それと吉本新喜劇の宇都宮まきさんと2時間おしゃべり。
今年の重大ニュースということで、ひとつだけトピックを選んでくださいというので、ウィキリークス事件を取り上げた。
ウィキリークス事件については、「すばらしい達成である」と声高に評価する威勢の良い人たちと、ぼそぼそと説得力のあまりない反論をする人たちに二分されてしまった。
インターネット・テクノロジーがらみの議論では、だいたいいつもインターネット賛美者たちが理路整然、博覧強記、縦横無尽の論陣を張って、「そういうのは、ちょっとどうかね・・・」という陰気な反論を鮮やかに蹴散らしている。
私はこういう言説状況をあまり健全なものだと思わない。
議論というのは同じくらい威勢の良い人たちが、同じくらい説得力のある論拠を示し合う拮抗関係においてもっとも生産的になるというのが私の経験的確信だからである。
インターネット・テクノロジーは「こういうものを作り出して、こういうふうに運転すると、こういう結果が出るだろう」という射程の遠い見通しがあって構築されたものというよりは、「いろいろいじっていたら、こんなものができちゃったよ」という「瓢箪から駒」的な要素が濃いような気がする。
ツイッターをやっていると、そう感じる。
ツイッターの字数を140字に制限したときに、設計をした人はその効果について確定的な見通しを持っていたようには思えない。
まあ、140字くらいだわな、的な感じで決めたんじゃないかと思う。
でも、その結果不思議なことが起きた。
この字数内での「つぶやき」でわが身に起きた事件について、高い優先順位にしたがって「実況中継」をしようとすると、「たくさん仕事をして疲労している」という話と「疲れて、あちこち具合が悪い」という話がしだいに増えてくるということである。
ブログ日記ではそういう「愁訴」はあまり書かれない。
ブログ日記は、リアルタイムでの断片的な「つぶやき」ではなく、ある程度まとまりのある時間内におきたできごと全体を総括したかたちで書かれるからである。
もちろんブログでも悩みや痛みや苦しみは吐露されるが、それは「観念のフィルター」をくぐって、いったん「記号化」された愁訴である。
そういうことを書くと、どういう効果があるかをある程度クールに考量して、功利的に利用される「悩みや痛み」である。
でも、ツイッターでつぶやかれるのはリアルタイムでの「寒さ」や「疲れ」や「空腹」や「痛み」や「吐き気」のようなものが多い。
たいへんに多い。
とりわけ、「空腹」についての記述が多い。
空腹というのは、テンポラリーなものであって、そのあとご飯やおやつを食べると消えてしまうものだから、一日の終わりに明窓浄机に端座して、「さて」と日記帳を取り出したときに主題的に書かれることはふつうはない。
これはツイッターというメディアの特徴を端的に表している。
一日の終わりに「今日一日の出来事は?」というふうに総括したときには「空腹だった」という言葉は出てこない(だって、もうご飯食べちゃった後だから)。
でも、実際には「空腹感」が、その一日のうちのかなり長い時間にわたって、当人における支配的な身体実感だったということがありうるのである。
ツイッターでは「ご飯の話」が実によく出てくるが、それは多くの場合「これから・・・を食べる予定」というふうに書かれる。
つまり、「もうじき満たされるはずのリアルな空腹感」にドライブされるかたちで語られることが多く、「いま・・・を食べてたいへん満足した」という総括の言説をとることの方が少ない。
「さあ、これからカツ丼を食うぞ」というときに人間の胃袋は「カツ丼型にへこんでいる」というふうに比喩的に言われるが、ツイッターはまさにこの「カツ丼型にへこんでいる」欲望を表すことにきわめて適しているのである。
「回顧的に自分を語るときには語られることの少ない、しかしながら現時的にはきわめて切実だった身体実感」を実況中継するという効能をこれほど豊かに備えたメディアを私たちはこれまで持ったことがなかった。
私の母親はコンピュータを持たないので、兄が私のブログ日記を一週間分まとめてプリントアウトしたものを手渡していた。
それによって私の日常、とりわけ私の病気や疲労について知ることができることを母はブログの手柄としていた。
母がもっとも知りたいのは、息子の対外的な活動よりむしろ、ちゃんと食べているのか、ちゃんと寝ているのかといった身体にかかわる情報だからである。
でも、私の最近のブログ日記にはそういう身体情報はもうほとんど書かれていない(そこには「演説」しか書かないことになってしまった)。
疲れたとか腹減ったとか眠いとかいう私の身体の実況情報はすべてツイッターに流れ込んでしまったからである。
ツイッターはインターネットが発明されて以来、「もっとも身体的な」メディアである。
それが投稿者の「身体的近さ」を実感させる。
名越先生とお会いするのは久しぶりなのだが、私は名越先生が昨日どこにいて何を食べて、どんな仕事をして、何時間くらい寝て、どれくらい疲れているのかについて、私と会う前にどこにいて、どんな交通手段でこちらに向かっているのかまで、会うに先立って、リアルタイムの情報を手にしている。
もちろん名越先生は私についても同じことを知っている。
だから、会ったときに感じる「近さ」がこれまでとは全然違う。
「それでさ」という感じで話が始まる。
会うのが半年ぶりでも、「さっきの話の続き」なのである。
こういうことはこれまでなかった。
どんなメディアもここまでリアルな身体実感を伝播することはなかった。
インターネットに身体性を載せることに成功したという点でツイッターは画期的なメディアだと私は思うのだが、ツイッターの設計をしたエンジニアは「そんなこと」をたぶん全然予測していなかったと思う。
そういうものなのである。
インターネット・テクノロジーは設計者の期待には含まれていなかった副次的・派生的な機能においてイノベーションをもたらすことがある。
そのような生成的なテクノロジーについて、「既成の人間的価値観」に基づいて良否を論じることが果たして適切なのか。
ウィキリークスの発明者はたぶん国民国家という政治的幻想に対する批判をこめてこのシステムを考案したのだと思う。
でも、こういうテクノロジーは「国民国家という政治的幻想に対する批判」というようなスケールを軽々と超えてしまうことがある。
ウィキリークスは「攻城器」のような破壊兵器である。
何かを破壊するためにはきわめて有効な道具である。
もちろん、世界には破壊されねばならない多くのものがある(たぶんそうなのだろう)。
破壊されるべきものはてきぱきと効果的に破壊されるべきだという考え方にも私は反対しない。
けれども、それと同時に、あやうい土台の上に、はかない人間的価値を忍耐積み上げてゆくおもしろみのない作業も誰かが担わなければならないということも告げなければならない。
そのような作業に「攻城器」はあまり役に立たないということも。
ウィキリークスによってリークされた今回のアメリカの公電情報は『ガーディアン』のような世界的な声望を誇るクオリティペーパーにその吟味と発表を委ねられた。
その真偽について、発表の適切性について、「既存のメディア」という「スクリーン」を一回通したのである。
「重大な情報の扱いは常識によってコントロールされるべきである」という「常識」がここではまだ生き残っている。
情報公開を賛美する人々は「抑止」がかかったことの意義についてほとんど言及しない。
けれども、私はこの事件でいちばん重要なのは「常識による抑止」の機能について改めて考えることではないかと思うのである。
(2010-12-23 10:35)