東京都の青少年の健全な育成に関する条例の制定をめぐって、表現規制についての議論がさかんである。けれども、「有害な表現」とは何かという根本の問題は主題的には問われていない。
最初に確認しておきたいのは、「それ自体が有害な表現」というものは存在しないということである。
どれほど残虐で猥褻な図画や文字であっても、マリアナ海溝の底や人跡未踏の洞窟の中に放置されているものを「有害」と呼ぶことはできない。どのような記号も人間を媒介とすることなしには有害たりえないからである。全米ライフル協会の定型句を借りて言えば、有害なのは人間であって、記号ではない。
「有害な表現」というのは人間が「有害な行為」をした後に、「これが主因で私は有害な行為に踏み切りました」とカミングアウトしてはじめてそのように呼ばれることになる。
有害な行為の実行に先んじて(有害な行為抜きで)、存在自体が有害であるような記号というものは存在しない。
次に確認しておきたいことは、「有害な行為」についての基礎的データである。
統計が私たちに教えてくれるのは、わが国が世界でも例外的に犯罪の少ない国だということである。殺人事件発生率は先進国最低である。ロシアは日本の22倍、イギリスは15倍、アメリカは5倍。2009年には日本は殺人発生件数で戦後最低を記録した。
少年犯罪も同様である。殺人、強盗、放火、強姦といった凶悪犯罪が多かったのは1960年前後であり、以後急カーブで減り続けている。だから、日本には欧米からも「どうしてこんなに少年犯罪が少ないのか」を知りに視察団が送り込まれてくる。
私の記憶する限り、強姦件数が史上最多であった1958年というのは「有害図書」に子どもたちが自由にアクセスできるような時代ではなかった。「有害図書」を売るコンビニもなかったし、エロゲーもポルノビデオもなかった。性に関する情報から子どもたちは隔離されていた。それでも性犯罪は起きた。ということは有害図書の流布と性犯罪発生のあいだに統計的な相関は見出しがたいということである。
現在世界で性表現についての規制がもっとも厳しいのはイスラム圏であるが、イスラム圏では他の国々でよりも女性の人権が尊重され、性的暴力が効果的に抑止されていると考える人は少ない。映画や漫画における暴力表現についての規制がもっとも峻厳なのはアメリカだが、そのせいでアメリカでは暴力が効果的に抑止されているという判断に与する人も少ない。
この事実から知れるのは、人が有害な行為を行うに至るには無数の要因がかかわっているということである。遺伝的形質も家庭環境も学校教育もメディアもそれに関与しているだろう。
もちろん政治文化もその一因のはずである。政治家たちが原理的な議論をネグレクトし、統計的根拠も示さずに重大な政治的決定を下すことが許される社会では、そうでない社会よりも人々が非寛容で攻撃的になる可能性は高いと私は思う。
この「有害政治家」たちのもたらす社会的災厄の責任は誰が取ってくれるのであろう。
(2010-12-10 11:24)