ラジオで国会中継を聴く

2010-11-26 vendredi

北朝鮮の砲撃問題のときの政府の初動対応の「鈍さ」が国会できびしく批判された。
昨日ちょうど、このやりとりをしているときNHKラジオで国会中継を聴いていた。
ラジオの国会中継がこんなに面白いものだとは思わなかった(テレビの中継の50倍くらい面白い)。
だって、テロップが出ないから。
質問のあと、答弁に立った閣僚が返答に窮して「・・・・」と無言でいると、空白の時間が流れる。
ほとんど「放送事故」である。
大臣も何か言わないといけないから、必死になって「答弁らしきもの」を口にするのだが、何も思いつかないと、ある段階からは「自動筆記」状態になる。
菅首相の答弁もとんちんかんな自己弁護に終始していたし、国家公安委員長や文科大臣の答弁に至っては、自分が何を言っているのかわかっていないほど、しどろもどろのものであった。
ラジオを聴きながら「困ったものだ」と思った。
国会の予算委員会審議は東アジアの軍事的緊張に比べればずいぶんとプレッシャーの少ない事態のはずである。
言い負かされたからと言って命を取られるわけではない。
その程度のプレッシャーで、一気にこれほど知性の活動が不調になる人たちに国政を委ねていてよろしいのであろうか。
私は彼らの政治的識見について文句を言っているのではない。
それ以前の「資質の問題」として、「窮地に追い詰められると愚鈍化する」というような生存戦略を(おそらくは無意識に)採用している人たちは、政治のようなストレスフルな環境にはあまり向かないのではないか思ったのである。
政治家の資質としてとりあえずいちばんたいせつなことは「胆力」だと私は思う。
まずは「浮き足立たない」ということである。
危機的状況でも浮き足立たず、感情的にならず、ロジカルに思考し、抑制の効いた言葉づかいでそれを語れる人間は、そうでない人間よりも危機を生き延びるチャンスが多い。
それは経験的にたしかである。
もし、ほんとうにこの事件が国難的なレベルのものであると判断しているのなら、政治家たちは、「国難的状況に臨んで、どれほど平常心でいられるか。どれほど胆力があるか」を競ったはずだと私は思う。
けれども、昨日の国会中継を聴いていたら、そうではなかった。
むしろ、全員がどれほど浮き足だっているかを競っていた。
ひごろ冷静な仙谷官房長官も「満腔の怒り」というような感情的表現を使って、自分の政治家としての適格性を証明しようとしていた。
政治家が政治的イシューについて「前後を失うほど感情的になっている」ことをショウオフすることを評価ポイントに数えるというような幼児的な風習がいつから本邦の政界に定着したのだろう。
ラジオ放送の中で興味深かったのは、参院の審議できびしく質問で政府を責め立てていた山本議員がつい「感情的」になって絶叫した言葉が「いまこそ日米同盟でしょう!」だったことである。
日本が危機的状況に陥ったのだから、「アメリカと緊密に連携をとらなくてはいけない」というロジックを支えているのは、「日本の軍事的危機について最終的に責任をもつのはアメリカだ」という信憑が彼のうちに深く根ざしていることを示している。
外交的難局を切り抜ける方法を「日本人は自力で考え出さなければならない」という緊張感はここにはない。
「まず関係各国との連携を」というのは言い換えれば「日本はどうすればよいか」についてアメリカの意向を最優先に配慮するということである。
「アメリカの軍事的属国である日本に、自力で外交を展開する選択肢はほとんどない」というのは日本に課せられた歴史的条件である。
戦争に負けたことをいまさら恨んでもしかたがない。
けれども、その歴史的条件の中でしか政略が立てられないという事実については、もうすこし「恥」の感覚を持ち続ける方がいいのではないかと私は思う。
「ここはまあ、日米軍事同盟基軸ということで、アメリカの東アジア戦略の枠内で対応するしかないんじゃないですか。ですから、まずアメリカから情報をいただき、アメリカの指示に従う、と」という政治的意見は「悲しげに、ためいきまじりに」口にされるべき言葉ではないのか。
誇らしげに、感極まって、口にすることではあるまい。
ラジオを聴きながら、そんなことを思った。
べつに誰かの悪口を言っているわけではありません。
Don't take it personal