昨日の平松市長を囲む会の最初の1時間は寺島実郎さん(大阪市特別顧問)の講演会。
寺島さんはスケールの大きい話を「常識的」という節度を超えずに話すことができる珍しい知性である。
『街場の中国論』を書いたときは寺島さんの『大中華圏』(岩波書店、2004)にずいぶんお世話になった。
だから、昨日の講演もとても楽しみにしていた。
期待とおり、1時間余、たいへんインパクトのあるお話を伺った。忘れないうちに、たいせつなポイントを記録しておく。
メディアの一般の論調とずいぶん温度差があるのは次の二点
(1) 日本の21世紀の外交戦略・経済戦略のメインターゲットは欧米ではなく、大中華圏(中国、香港、台湾、シンガポール)と韓国である。
(2) 日本の経済的・文化的なポテンシャルはきわめて高いが、それを適切に発現するためのシステムは整備されていない。
私はどちらの論点についても寺島さんと同意見である。
寺島さんはイデオロギー的な外交経済戦略を語らない。三井物産の社員として、世界各地でものを売り買いして、口銭を稼いできた「商人」のスタンスを崩さない。
その「商人」の眼で見て、対米貿易はもう先がないという。
三井物産のサンフランシスコ支社が先日閉鎖された。シリコンバレー相手の商売では支社の経費が払えなくなったのである。
アメリカから日本のビジネスマンたちが立ち去り始めている。それはニューヨークの日本料理店が次々閉店していることからも知れると寺島さんは言う。
日本の対米貿易は1990年で27.4%。それが減り続けて、2010年は13.2%。
20年で半減したことになる。
それに対して対中国は3.5%から20.6%、約6倍に増えた。
対大中華圏は13.7%から31.0%。アジア全域では30.0%から51.0%に増加した。
このアジア・シフトは、アジアからの観光客の急増というかたちで私たちにも実感されている。
日本からアメリカへ向かう出国者は95年の475万人から09年の292万人に減った。40%減。
ただし、292万人のうち214万人はハワイ、グアム、サイパン。
アメリカ本土ドに到達したのは78万人にすぎない。
対中国は95年の87万人から09年は332万人に増加。
大中華圏全体では601万人。
海外からの訪日外国人も現在は76%がアジアからの来訪者である。
前年度比でみると、中国が47%増、韓国72%増(これは09年がウォン安で来日者が少なかったために数値が突出している)、台湾37%増、香港28%増、シンガポール44%増。
この趨勢は今後も続くだろう。
これらのデータが意味するのは、戦国時代以来の、東シナ海を縦横無尽に人とモノと情報がゆきかう「アジア大移動」時代が始まりつつあるということである。
この「アジア大移動」シフトを一過性のものとしてはならない。来日者が温泉やリゾートやブランド品の買い漁りで通過するだけの場所にしてはならない。
継続的にアジア圏(に限らず全世界)の人々を惹きつける「情報の磁場」が日本に存在しなければならない、と寺島さんは言う。
シンガポールが先鞭をつけた「医療ツーリズム」というのもその一つだろう(ただし、これに対しては医療の現場からは批判的な声も聞こえている。医療をビジネスのワーディングで語ることのリスクを勘定に入れた上でなければ、軽々に医療ツーリズムについて語ることはできないと私も思う)。
寺島さんの提案のひとつは、ジュネーブのように国際機関を誘致することである。
すばらしいアイディアだと思う。
だが、国際機関の誘致の条件は交通の利便性やホテルや通信網の充実や治安のよさだけではない。
なぜ、日本のように国際機関が常駐するためのほとんどすべての条件が整っている国の都市が選択されないのか。
それは日本では政治的中立性が担保されないのではないか・・・と世界の国々が何となく思っているからである。
そこには日本が米軍の常駐する「アメリカの軍事的属国」だという認識が反映している。
国際機関を誘致するための最優先条件は「米軍基地の撤去」だと私は思っているが、たぶん同意してくれるひとはきわめて少ないであろう。
他にも恒常的に世界中から人を集めるアイディアはある。
寺島さんは学術的なセンターを構想されているが、私も同意見である。
ある国が人々を惹きつけるもっとも安定的な要素は軍事力でも経済力でもなく、文化の力だからである。
日本の文化的ポテンシャルは世界でも一流だと私は信じている。
けれども、アウトカムはまだその潜在する資源の何十分の一をも発現していない。
これこそが21世紀における日本の「真の国力」になりうると私は思う。
このポテンシャルをどう涵養し、開花させるか。
それが喫緊の国家的使命である。
だから、ほんとうはここで「教育立国」という言葉が出てこなければならないのである。
「教育を受けるなら日本に行こう」という人々がアジア全域に数百万という規模で存在するときに、日本の文化的国力は安定的な構造をもつことになる。
けれども、過去30年間、日本の教育行政は「教育立国」に失敗した。
申し訳ないけれど、この期間の政府主導の教育施策は「文化的な力」の育成にはほとんど関心を向けなかった。
それよりは、「金が稼げる力」の育成を最優先したからである。
「わずかな手銭で短期的に巨富を回収できる能力」こそが優先的に開発されるべき人間的資源であるというイデオロギーに教育行政は振り回されてきた。
「英語ができる日本人」のプログラムを起案したとき、文科省はそのHPに堂々と「経済競争を勝ち抜くため」と書いた。
英語ができないと金儲けができない。
それが教育行政のトップが英語教育の必要性を基礎づけるために使ったロジックである。
爾来、日本の生徒たちの英語学力は底なしの低下を続けている。
こんな「下品」な教育目的で活性化するほど人間の知性は「下品」に作られていないからである。
教育行政が掲げるべきは、「世界を領導しうる文化的な力」の育成である。
一身の利益とか一国の繁栄のためというような「せこい」話ではなく、世界の人々のために、万有のために各自の知的パフォーマンスを高めようというような「おおきな物語」によってしか、人間の知性は活性化しない。
それでもまだ遅くはないと私は思っている。
「教育立国」というのは、博士号を何人がとったとか、外部資金をいくら集めてきたとか、特許の件数がいくらになったとか、そういう「せこい」枠組みで論じる話ではない。
そのような既存の枠組みの中での自分の相対的なポジションを上げて、年収や地位を上げることを人生の目標とするような小粒な人間を何十万人集めても教育立国などできるはずがない。
イノベーティヴな才能が「ここでなら気分よく仕事ができる」という環境を整備すること、それが教育立国施策の「すべて」である。
イノベーティヴな才能は、その定義からして既存の「能力査定枠組み」で格付けすることがむずかしい(「できない」わけではないが)。
だから、教育立国のための最優先の条件は、なによりも「才能」の定義をひろくゆるやかに取り、短期的・実利的なアウトカムを求めず、研究し、創意工夫をこらす人々を気長に支援することに尽きるのである。
そのような制度が整った国に、世界中の才能は「蜜に群がる蜂」のように集まってくるだろう。
観光立国も医療立国も環境立国も、どれも魅力的なオプションである。
それが成功することを私もつよく望んでいる。
けれども「文化立国」という以上は教育において「世界に類をみない制度を持っている」ということがなくては済まされない。
イノベーティヴな才能は、イノベーティヴな制度にしか惹きつけられない。
そのような制度を設計することが教育行政の最優先課題であり、外交戦略をふくめて国家戦略の最優先課題だと私は思っている。
寺島さんの話をうかがって、そんなことを思った。
少しだけ祝辞のときに話させていただいたけれど、言葉を尽くせなかったので、ここに記すのである。
(2010-11-09 09:45)