声を聴くことについて

2010-10-28 jeudi

朝8時半から講堂で中高部の生徒たちのために奨励。
「奨励」というのは、キリスト教の礼拝の中で、聖句をひとつ採り上げて、それに基づいてお話を一つすることである。
私が採り上げたのは、『コリント人への手紙一』7:24
「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の前にいなさい」という聖句である。
私はこの聖句から「召命について」という奨励を行った。
レヴィナス老師が教えるように、聖句の意味を知るためには、必ず前後の聖句を読まなければならない。
聖句の意味は文脈依存的だからである。
7章は性愛と結婚についての教えが書かれている。
基本的な考えは「夫は妻を離別してはならない。妻は夫と別れてはならない」ということである。
結婚したら、「そのまま」でいなさいというのが聖書の教えである。
与えられた状況でベストを尽くせ、と。
「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」(7:20)
それどころでは済まない。
聖書は「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。」(7:21)とまで言い切るのである。
聖書の教えはまことに過激である。
「奴隷の状態」においても、私たちは神の召命を聴くチャンスがある。
「どこにいても」私たちは私たちにまっすぐに向かってくる「召命」の言葉を聴くチャンスがある。
神がそこにおいて私たちを「召した」ということは、「そこ」に私たちが果たすべき仕事があるからである。
だから、今、ここで、耳を澄ませなさいと聖書は教えている。
神の召命は大音量で響き渡るわけではない。
それはその人ひとりにしか聞こえない。
そうでなければ、それを「召命」と呼ぶことはできまい。
神の召命は微かな波動として、まわりの誰にも聞こえない、私だけが聞き届けることのできるシグナルとして私たちに触れる。
だから、それに注意を傾けなさい。
深く息をして、眼を閉じて、心を静めて、「存在しないもの」からのメッセージを聴きなさい。
これは服喪儀礼と同じものである。
どの社会集団でも、近親者には服喪儀礼として歌舞音曲を控え、他出や社交を控え、美味を飽食し泥酔することを控えよと命じている。
これは「家の中に重病人がいるとき」の心遣いと同じものである。
壁越しに、病人のわずかな咳払いや、うめき声が聞こえたときに、その微かなシグナルを聞き逃さないように、私たちは病室の近くにじっとして、大きな声を上げることを控え、センサーの感度を高く保つように工夫をする。
死者をあたかも家内の重病人のように扱うこと。
それが服喪儀礼である。
死者はもう存在しない。
けれども、死者は「存在するとは別の仕方で」autrement qu’être生きる者たちに「触れる」affecter。
「死者が私のこのふるまいを見たら、どう思うだろう」という問いがことあるごとに回帰して、そこにいない死者の判断をおのれの行動の規矩とする人にとって、死者は「存在しないという仕方で存在する」。それどころかしばしば死者は「生きているときよりもさらに生きている」。
死者をそのように遇すること、それが服喪儀礼である。
この「存在しないもの、遠来のものからの声に耳を傾けることができる」能力が人間の人間性を基礎づけている。
『論語』の陽貨篇には「服喪三年」についての宰予と孔子の対話が録されている。
弟子の宰予が孔子に服喪期間が長すぎることに不満を言った。
「三年の服喪期間というのは長すぎませんか。そんなに公務を休んでいたのでは、社会制度は維持できません。」
孔子は「じゃあ、好きにしなさい」と宰予を帰してから、かたわらの弟子にこう言った。
「予の不仁なるや。子生まれて三年、然る後に父母の懐を免がる。夫れ三年の喪は天下の通喪なり。予や三年の愛其の父母に有るか。」
あいつも薄情なやつだね。子どもというのは生まれてから三年は父母に扶養されて育つ。それからようやく親の手を離れて生き始める。だから服喪三年ということになっているのだ。あの男は父母に対してその三年分の愛を惜しむのか。
子どもの養育と服喪が「対」になっているという発想はまことに孔子の洞見である。
赤ちゃんのとき、私たちは親が自分に何を語りかけているのか、自分に何を求めているのか、さっぱりわからない。
でも、その意味のわからない言葉がしだいに分節言語として理解されてくるころに、親による24時間ケア体制から離脱して、一人で遊び始める。
「父母からの、聞こえなかった言葉がしだいに聞こえるようになる」というのが子どもの成長過程である。
服喪儀礼はその逆の行程を進む。
「聞こえていた言葉がしだいにか細くなってゆき、やがて聞こえなくなる」まで耳を澄まし続けるというのが服喪儀礼である。
子どもが父母の声を聴き取るまでに3年かかったなら、父母の声が聞こえなくなるまで3年かけるというのは理にかなっている。
人間の世界はそのように「いまだ到来しないもの」と「すでに立ち去ったもの」の間の中空に構築されている。
服喪儀礼とは、死者に対して礼を尽くすことが目的ではない。
死者に対して礼を尽くすことを通じて、「存在しないもの」とかかわる術を学び、人間性を基礎づけることが目的なのである。
話が「召命」からずいぶん離れてしまったようだけれど、召命を聴くことも、服喪儀礼も、赤ん坊の成長も、構造的には同じ身ぶりを繰り返しているのである。
それは耳を澄ますということである。
私たちがすべての人間的営みを通じて、まず学ぶべきことは「聴く作法」なのである。
そこからしか人間の仕事は始まらない。