今年も書きました、ノーベル文学賞予定稿。そして、今年も使われませんでした(泣)。
来年こそは使って欲しいですね。
村上春樹さんのノーベル文学賞受賞を祝う
村上春樹さんが今年度のノーベル文学賞を受賞した。「ようやく」という感じがする。
毎年この時期になるとメディアから「受賞予定稿」を求められる。だから、このセンテンスを書くのもこれで六回目である。もちろんこれも予定稿。『1Q84』が現実の1984年とは別の1984年の世界の出来事を描いていたように、私もまた毎年「村上春樹がノーベル文学賞をもらった(現実には存在しない)世界」についての短い物語を書いてきたわけである。私は小説というものを書いたことのない人間であるから、たぶんこれが私の書いた唯一のフィクションということになる。
受賞奉祝記事には毎年ほぼ同じことを書いている。それは村上春樹の「世界性」を構成するのは何かという問いである。村上文学は一部の批評家たちからはひさしく「ポストモダン社会における都市生活者の浮薄で享楽的な生活を描いた風俗小説」という罵倒に近い批評を浴びてきた。けれども、そのような定義では、掃いて捨てるほど書かれている同類の作物の中で、村上春樹の作品だけが例外的に世界的なポピュラリティを博し、数十カ国語に訳され、宗教も政治体制も習俗も超えた読者を増大させ続けている理由を説明することができない。
村上文学の世界性をかたちづくっている要素は何か。私はそれをある種の「神話性」だと思っている。
人類すべてに共通する物語がある。「昼と夜」とか、「男と女」とか、「神と悪魔」とかいうのはそのような「世界に秩序を与えるための物語」である。それらの物語が語られたことによって、世界は分節され、整序され、有意化され、いまあるようなものになった。もしそれらの物語が語られなかった場合に世界がどのような相貌を示すことになったのか、私たちは想像することができない。「夜のない昼」とか「いまだ性化されていない世界における女性」というようなものを私たちは思い描くことができない。すでに物語的に分節された世界に産み落とされた私たち人間は「分節される以前の世界」には遡ることができないのである。
けれども、ある種の人々は世界が分節され、有意化され、今あるようなものになったその生成の瞬間に切迫したいという法外な野心をもつことがある。根源的に思考する自然科学者や哲学者たちがそうだ。彼らは宇宙の理法や存在の彼方について(えら呼吸しかできない魚が空気中に身を乗り出すように)許容された棲息条件を踏み超えてまでも思考しようとする。同じように、作家たちの中にも物語がいかなる作為も予断もなしに純粋状態で流出してくるその瞬間に-つまり世界が意味をもって顕現してくるその瞬間に-立ち会うことを切望する人々がいる。そのマインドセットは最先端で仕事をしている自然科学者とほとんど変わらないと私は思う。
村上春樹はそのような作家の一人である。村上春樹の世界性を担保しているのは、彼が「グローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性」のようなものを達者な筆致で描いているからではない(そのようなものはわずかの賞味期限ののちに「歴史のゴミ箱」に投じられるだろう)。そうではなくて、この作家が「私たちはなぜ物語を必要としているのか」という根源的な、ほとんど太古的な問いをまっすぐに引き受けているからである。人間が人間であるためには物語が語られなければならない。このことを村上春樹ほど真率に信じている作家は稀有である。
多くの作家は「いかに書くべきか」という問いを「いかに書けば批評家に『先端的』『前衛的』と評価されるか」「いかに書けば『私の唯一無二性』を誇示できるか」「いかに書けば市場に選好されるか」といったプラクティカルな問いに置き換えて考えている。村上春樹はそうではない。彼はまっすぐ人間の想像力の根源にある「暗い場所」に垂鉛を下ろしてゆく。それが人間にとってのたいせつな仕事、「類的使命」の一つだということを確信しているからである。その作業についての作家自身の言葉を引いておこう。
「僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのように普通の人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。そしてもちろんその技術を、歳月をかけて大事に磨いてきたのです。」(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』、2010年、文藝春秋、89頁)
この錬磨の努力を自らに課す作家を同時代に得たことを一読者として素直に喜びたい。
(2010-10-08 08:03)