「あの、ちょっと」な本について

2010-09-27 lundi

大学に来てメールボックスをチェックするとき、いちばん頭が痛いのが、「献本」である。
自分もずいぶんたくさんの人に本を送りつけているので、人のことは言えないのだが、それは友人知人宛てであって、見知らぬ人に送るということはしない。
もちろん、編集者が独自の判断で送るということはある。各紙の書評担当者に送るとか、あるいは一読して激怒、私に筆誅を加えそうな書き手にも送ることがある(そうすれば書名が繰り返しメディア上で言及され、高いパブリシティ効果が期待できるからである。「これほど悪口を言われる本なら読んでみたい」というふうに考える読者は決して少なくないのである)。
私だって友人知人から送られてくる本はうれしく頂戴する。
困るのは知らない人から送られる自費出版本である。
私も自費出版で何冊も本を出したことがあるから、市場のニーズとは違うレベルで、それぞれに深い思いと個人的必然性があって本を出された事情はよくわかる。
けれども、「ご高評を賜りたい」とか「推薦文を書いて頂きたい」とか「ご面談の上、販売戦略についてご意見伺いたい」とか言われるうちに、「あの、ちょっと・・・」と腰が引ける本に出会うことがあるのである。
「あの、ちょっと」本の多くに共通する特徴は「私の理論によれば世界のできごとはたちまち快刀乱麻を断つがごとく解明される。どうしてこんな簡単な理屈が諸君にはわからないのだ。困ったものだ」という「見下し」目線である。
「世間はバカばかりなので、私の才能を評価できない」という言葉づかいは青年客気の通弊であり、プライドの高い青年はうっかりするとこれに類するフレーズをふっと口走ってしまうものであるから私はそれを責めようとは思わない。
その種の矜持はある意味では「健常」の徴候である。
けれども、まったく同じ言葉を口にしても、それがどこかしら「不自然」で「病的」に響く場合もある。
この識別がむずかしい。
別に若い時に言えば健全だが、年を食ってから言うと病的というほど単純なものではない。
若い人が口にしても「怖い」場合があり、老人が口にしても共感を呼ぶ場合がある。
年齢はあまり関係ない。
社会的立場とも関係ない。
でも、「あの、ちょっと・・・」という印象をもたらすものと「ほうほう、元気のよろしいことで」と思わず微笑むものとの間には歴然とした違いがある。
その差は奈辺に存するのであろうか。
それはたぶん「公共性」に対する配慮の差なのであろうと思う。
つまり、「私の言葉ははたして他者に届くだろうか?」というコミュニケーションの存立についての配慮よりも、「私の言葉は正しい」という真理性の挙証の方を優先させるタイプの人の書くものは「あの、ちょっと」本になりやすい。
大学の授業とか、道場というところは公共性の高いところである。
だから、「ちょっとあぶなそうな人」に対しても原則的には門戸が開放されている。
公共性が「あぶなさ」の発現を抑制するからである。
道場は原則として出入り自由である。
「学びたい」という自己申告があれば、誰でも受け容れる(学校はそれほど開放的ではないが、アカデミアは本質的には万人に開放されたものでなければならないと私は思っている)。
けれども、そのような公共的な場では、おのれの私見をうるさく主張して、迷惑な行動に出る人は少ない。
たぶん、それは公共性の高さが関与している。
擬制的にではあれ「公共の福利」あるいは「治国平天下」をめざすような公共性の高い場は「ちょっとあぶない」人に対する心理的なハードルが存在するようなのである。
私の経験した限りでは、いあわせた人が突然「問題行動」を起こすことがいちばん多いのは「講演会」である(立ち歩く、睨みつける、いびきをかいて眠る、小声で何かつぶやき続ける、などなど)。「カルチャーセンター」がそれに続く。「学校」は比較的少なく、もっとも少ないのが「道場」である。
これはたぶん「匿名性」と「身体性」に相関していると私は見ている。
匿名性が保証されている場所ほど、人は攻撃的、秩序紊乱的であることを自分に許す。
固有名が特定され、問題行動に対してピンポイントで処分や訴追がなされる可能性が高いほど、謙抑的、秩序維持的にふるまう。
当たり前ですけど。
だが、より興味深いのは、身体性と問題行動が負の相関にあることである。
身体的な技法教授の場においては、妄想的な言動をあえてするものは少ない。
妄想的であることと、身体技法を学習することは両立しがたいのかも知れない。
むろん、まれには道場でなお「あの、ちょっと」的言動をする人もいないことはない。
だが、彼らは例外なしに身体が硬い。
肩や肘の関節が硬くてほとんど曲がらない。
ミラーニューロンが機能不全で、簡単な動作を模倣することができない。
「マッピング」が苦手で、空間内の自分のポジションの把握がうまくできない。
だから、そのような諸君の多くは身体を痛めて稽古を止めてしまう(あれだけ身体が硬ければ、関節技や受け身の稽古はほとんど拷問に等しいであろう)。
道場は「身体的ハードル」によって妄想的なタイプの人をスクリーニングしているようである。
これらの断片的事実から推論される結論は意外なことに「公共性と身体性は相関する」ということである。
書いている私もびっくりである。
身体技法の学習とは、端的に言えば、他者(師匠)の身体との鏡像的同期のことである。
他者の身体に想像的に入り込み、他者の身体を内側から生きるということが身体技法の修業ということのすべてをそぎ落としたときの本質である。
その修業は「どのようにして他者の身体に同期するか。どのように呼吸を合わせるか。どのように筋肉のテンションや関節のしなりを揃えるのか。どのようにして内臓感覚を一致させるか」といった一連の技術的な問いをめぐって進行する。
それらの問いは「どのようにして他者との深く、肌理細やかなコミュニケーションの回路を存立させるか」というふうにも言い換えることができる。
コミュニケーションの回路を行き交う「コンテンツ」の意義や真理性よりも、コミュニケーションの「回路そのもの」が順調に機能しているかどうかを優先的に配慮する人間はたぶん「あの、ちょっと」的な本は書かない。
そういうことではないかと思う。
などといろいろ勝手なことを書いていますが、これはもちろん「あなたが送ってくれた本」の話ではありません。
Don’t take it personal
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