スーパークールな一夕

2010-09-01 mercredi

新型インフルエンザ・リスクコミュニケーション・ワークショップというところのシンポジウムにお呼ばれして、感染症の専門のドクターの方たちと「リスク・コミュニケーション」についてセッション。
ご一緒したのは、神戸大学大路剛、国立感染症研究所の具芳明、神戸医療センター中央市民病院の林三千雄、神戸保健所の白井千香、近畿医療福祉大学の勝田吉彰、司会は神戸大学医学部の岩田健太郎の諸先生がた。
いや、驚きましたね。
みんな「話が早い」ので。
かなりの早口で、かつ理路がはっきりしている。
「なんだかよくわからないことをごにょごにょ言う」という態度がほとんど生理的に忌避されている。
岩田先生は去年の 8 月に医学書院の仕事ではじめてお会いして、それからパートナーの土井朝子先生ともども何度かご一緒している。「私が会った中でいちばん頭の回転の速い人」のひとりである(横にいて息を潜めていると「クイ〜ン」と頭の中で何かが高速回転している音が聞こえそうな気がするくらい)。
そして、当然ながら「イラチ」である。
医学者、とくにフロントラインにいる臨床医には「イラチ」が多い。
つねに待ったなしの現場で診断し、治療をし、またサイエンスの最新情報を絶えずモニターしているわけであるから、勢い「イラチ」化することは止めがたいのである。
あと、「にべもない」人も多いですね。
判定の言葉を濁らせたり、相手のプライドを斟酌したり、「よいしょ」してサバいたりという、私など文系人間が得意とする「にべ」(ってなんだろう)的なものは、「待ったなし」の現場ではあまり(ほとんど)配慮されない。
昨日びっくりしたのは、新型インフルエンザの防疫体制の整備をめぐる質疑応答のときに、ひとりの先生がとりあえず「バイオテロ」と「東南海地震」を想定して、その経験をどうフィードバックするかについてコメントしたことである。
「最悪の事態を想定する」という備えの発想の重要性を説く人は多い。
けれども、この先生は、「最悪の事態が起きてしまい、かつそれに行政も医療機関も効果的な対処ができなかったときに、その負の経験をどう『よりましな』体制づくりにフィードバックするか」ということを語ったのである。
聴く人によっては、このような発言を「偽悪的」だとか「非人道的」だとかみなす人がいるかも知れない。
だが、それは短見というものである。
私はこのようなタイプのリアリズムを高く評価する。
これは昨日書いたいわゆる「危機論者」とまったく反対のマインドから出てくる言葉だからだ。
危機論者は備えの重要なことを訴えつつ、無意識的には危機の到来を欲望している。
この人はそうではない。
きわめて致死性の高い感染症の危機が市民生活の中にはいりこんできたとき、彼は厭でもその最前線にいなくてはならない。
前線にいる医師や看護師が次々と感染症で倒れるような現場で医療に従事している「未来の自分」を想定したその上で、彼は「どうせ死ぬなら犬死にはしたくない」と言っているのである。
このワークショップの場にいて、幸いそのカタストロフを生き延びた諸君がいれば、ぜひ「私や私の仲間たちの死」から少しでも有用な情報を回収してほしいと言っているのである。
「自分が感染し、まずくすると死ぬことを勘定に入れた上で感染症対策を論じている医師」のスーパークールな倫理性に私はちょっと感動してしまったのである。
私が危機論者を好かないのは、彼らが危機の到来のときに「逃げる」ことを経験的に知っているからである。
「ほら、オレが言ったとおりになっただろう」と言うのは、彼らが安全な場所へ立ち去るときの「別れ際」の台詞なのである。
共同体のフルメンバーである「大人」はそういうことをしない。
危機の到来について警鐘を鳴らしたのが、誰もそれに耳を傾けなかった。そうこうするうちに、ついに危機が到来した。
そういう場合でも、その破局的な現場に踏みとどまって、「彼の意見を聴かなかった人々」と、不幸と危険をクールにわかちあうのが「大人」である。
昨日のリスク・コミュニケーションのワークショップは私にとってたいへん気分のよい出会いであった。
それはそこにいるのが「大人」たちだったからである。
このような場を経験させてくれた岩田先生に改めてお礼を申し上げねばならない。
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