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日本の人事システムについて

ツイッターで茂木さんが就職活動について書いている。
多くの点で、私も同意見である。
けれども、完全には同意できないところもある。
意見が違うというのではなく、話を「切り出す順番」が違うということなのかも知れない。
それについて考えてみたい。
茂木さんはこう書いている。

「大卒2割、就職も進学もせずという今朝のニュース (http://bit.ly/9IP2QS ) に思うところあり、日本の就職について連続ツイートします。
大学3年の夏から、実質上就職活動が始まる日本の慣習は、明らかに異常である。学問が面白くなって、これからいよいよ本格的にやろうという時に、なぜ邪魔をするのか。
そもそも、新卒一括採用という慣習は、経営的に合理性を欠く愚行だとしか言いようがない。組織を強くしようと思ったら、多様な人材をそろえるのが合理的である。なぜ、一斉に田植えでもするように、同じ行動をとるのか?
日本の企業がiPadのような革新的な商品、googleやyoutubeのような革新的なサービスを出せない理由の一つに、大学3年から従順に就職活動をするような人材しかとっていないという事実がある。
なぜ、卒業した後、世界各地でボランティア活動をしたり、プログラミングの自習をしたりといった「ギャップ・イヤー」を経験した人材を採らないのか。なぜ、「履歴書に穴がある」などというくだらないことを問題にするのか。
新卒一括採用にこだわっていると、毎年同じ時期に大量の志願者のエントリーがあって、人事部もその能力を発揮しにくい。通年でapplicationを受け付ければ、じっくりと人物も見ることができるし、より実質的な採用ができる。新卒という縛りを外して、毎月受け付けてはどうか。
波頭亮さんは、東大の経済を出て、都市銀行に入って一ヶ月でやめたら、変わり者だと新聞記事になった。4年間ふらふらした。マッキンゼーでインターンしたら、即採用。一ヶ月後には、マハティール首相の前でマレーシアの国家戦略についてプレゼンしていた。
経営上の合理的な根拠もなく新卒一括採用という続けている日本の企業は、つまり、波頭亮さんのような例外的に優秀な人材を見逃し続けているということである。
就職も進学もしなかった2割の諸君、君たちの中には、「ずっと首輪をつけているのが良い」という日本の愚かな社会通念に反発したり、それに自分を合わせられなかった人たちがいるだろう。きみたちこそが、日本の希望だ。がんばれ!
マスコミのみなさんにお願い。卒業して、就職も進学もしなかったのが2割、ということをあたかも異常なことのように報じるのは止めてくれませんか? 日本の常識は、世界の非常識。イギリスのギャップイヤーのことなど、少し勉強なさると良い。
新卒一括採用に偏した日本の就職慣行は、国連人権委員会に訴えられてもよいくらいの愚かさのレベルに達していると考える。
一斉に大学を卒業し、一斉に入社して働きだすという日本のやり方は、「ものづくり」中心だった頃は良かったかもしれないが、インターネットがグローバルな偶有性のネットワークを生み出す時代に、全く時代遅れになってしまった。
新卒一括採用で、他社に遅れると優秀な人材が確保できないと思っている人事担当のみなさん。それは、おそらく幻想です。本当に優秀な人材は、そんな決まり切ったレール以外のところにいます。そろそろ、御社は、世に先駆けて新卒一括採用をやめてみませんか?」(引用ここまで)

大学二年生の秋から始まる「就活」によって、大学教育が深く損なわれていることについて私は茂木さんに同意する。
現場にいる人間としてその被害を痛感している。
単純に、就活によって時間が取られ、大学教育のための学習時間が割かれるということだけではない。
それ以上に深刻なのは、わずか20歳で「自分は査定される側にあり、この査定を通過しなければ、社会人として認知されない」という「不安」が彼女たちの感情の通奏低音になってしまっていることである。
受験勉強ももちろん「査定」であるけれど、ここまでの「不安」を伴うことはなかった。
というのは、受験の場合「どうして落ちたのか」の理由がはっきりしているからである。
点数が足りなかったのである。
受験勉強すれば必ず点数は上がる。1時間勉強すれば、間違いなく1時間分上がる。
その意味では、受験というのは努力と報酬の相関がかなりの確度で予見される「合理的な」プロセスである。
けれども就活はそうではない。
面接で落とされた場合、本人には「どうして落ちたのか」がわからない。
採用する側は「どうして落ちたか」の理由を開示する責務を免ぜられているからである。
その結果、学生たちは、自分には自覚されていないけれど、ある種の社会的能力が致命的に欠如していて、それがこういう機会に露出しているのではないか・・・という不安を抱くようになる。
その不安が就活する学生たちをしだいに深く蝕んでゆく。
周囲の仲間たちが次々と内定をもらってゆくなかで、黒いスーツを着続けている学生たちをいちばん傷つけるのは、「自分にどのような社会的能力が欠如しているのか開示されないままに、その能力を査定されるゲーム」に参加させられているという理不尽さである。
私自身はできる限り就職の面接官たちからの聴き取りを行って、就活の面接での着眼点が何であり、採否の基準が何であるかを学生たちには教えている。
そして、それは決してランダムなものではなくて、採否にはそれなりの合理性があるというふうに学生には説明している(一片の合理性があると信じなければ、彼女たちだって「こんなこと」には耐えられない)。
現行の就活は、「優秀な人材の登用」よりもむしろ、日本の若者たちを「組織的に不安にさせること」を結果として生み出していることを、企業の人事担当者はもう少し自覚して欲しいと思う。
たしかに、「査定され、排除されることの不安」につねに苛まれている状態に若者たちを置けば、彼らがいずれ「使いやすい」人材になることは間違いない。
「文句があるなら、いつでも辞めろ。おまえの代えなんか、いくらでもいるんだ」という恫喝ほど若者たちを凍りつかせるものはない。
自分の社会的能力について不安を抱く若者たちは、たしかに上司からすれば使いやすい部下であるかも知れない。経営者からすればいくらでも労働条件を切り下げられる「安い労働力」であるかも知れない。
けれども、そうやって一国の若者たちを「査定される不安」のうちに置き続けてきたことで、国の「勢い」そのものが枯死しつつあるという事実に、エスタブリッシュメントの方々はもうすこし自覚的になってもよいのではないか。
私は茂木さんと同じく、新卒者を一斉に採用し、経歴の「穴」を許容しないという日本の企業の人事体質を不合理だと思う。
けれども、その第一の理由は、それだときわだって優秀な人材が採用できないからではない。
「きわだって優秀な人材」というのは(その語の定義からして)、企業の人事戦略などとは無関係なところでそれぞれ個性的な仕方でその才能を発揮しうる人たちである。
だから、正直言って、彼らのことなんかは「ほうっておいてもいい」のである。
問題は「きわだって優秀なわけではないが、育てようによっては、かなりいいところまで行きそうな潜在能力をもった人たち」(若者たちのボリュームゾーンを形成する部分)を日本社会が構造的に「潰している」という事実の方である。
「支援すれば、大きく花咲く可能性」のある若者たちを「支援し、激励し、国力の底上げをする」という事業に日本のエスタブリッシュメントはさっぱり関心を示さない。
「可能性がある」という言い方をしたが、それは「支援したけれど、才能がさっぱり開花しなかった」というリスクを含んでいるということである。
正直に言うけれど、この「可能性ある若者への投資」の回収率は決して高くない。
少年少女のときに「オーラ」を帯びていた多くの人たちが、しばらくして会ってみたら、「オーラ」を失っていたというケースを私たちは繰り返し見ている。
いつ、どうして、彼らがそのアドレッセンスの輝きを失ってしまったのか、理由はわからない。
外的条件がそう強いたのか、彼らの中で何かが「死んだ」のか。
高い確率で、生来の才能は枯死する。
だから、「支援さえすれば、誰でも才能を開花させる」というのは経験的には事実ではない。
けれども、それは「だったら支援する必要がない」ということではない。
若々しい才能は脆く、弱い。
恐怖によって、恫喝によって、不安によって、花開く前に失われてしまう。
だからこそ、それは守らなくてはならない。
いくら手立てを尽くしても守り切れはしないけれど、それでもできるかぎり守らなくてはならない。
私は一教員としてそう思っている。
少年少女の開花可能性をもっとも傷つけるのは「自分の潜在可能性に対する懐疑」である。
そして、この懐疑は、査定され、格付けされ、「勝者には報酬を敗者には処罰を」というセレクションにさらされているうちに、焦燥と不安を栄養分にしてどんどん膨れ上がってゆく。
そういうことはやめてほしい、というのが教育の現場にいる一教師として私の願いである。
私はいまの雇用システムでは、「きわだって優秀な人間がそれにふさわしい格付けを得られない」ことよりも、「ふつうの子どもたちが絶えず査定にさらされることによって組織的に壊されている」ことの危険の方を重く見る。
正直言って、私は日本人がiPadを発明しなくても、YouTubeを発明しなくても、別に構わないし、それをとくに恥じる必要もないと思っている。
それより、ふつうの人たちが等身大の自尊感情を持って暮らせる社会を確保することの方が先決ではないかと思うのである。
繰り返し言うけれど、私は茂木さんの意見に異議があるのではない。
私たちの社会が直面しているいくつかの危機的兆候のうち、どれが緊急の「手当」を要するものであるかについての「被害評価」が微妙に違うというだけのことである。
私たちはいずれにせよ「同じボート」に乗っているのである。

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2010年08月06日 10:28 に投稿されたエントリーのページです。

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