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院内暴力とメディア

奈良県医師会が医療関係者17000人対象にアンケートした結果、医師・看護師の60%が患者から暴力や暴言による被害を受けていたと回答があった。
医療現場での「院内暴力」は年々問題化しており、それにより医療従事者の相当数が「仕事への意欲が低下した」「仕事に不安を感じている」。
(8月4日毎日新聞)
患者や家族から医療従事者への「暴力暴言」が急増したことについて、新聞はこのように「知らぬ顔」で報道しているが、この「院内暴力」に関してはマスメディアは「他人顔」ができる筋ではないと私は思う。
私が知る限り、過去十年、メディアは医療現場における「患者の増長」について、まったく批判的スタンスをとったことがない。
むしろ、医療現場における「患者の権利」の無条件擁護、医療事故における医療従事者への集中的なバッシングを通じて、「医療従事者に対して苛烈な批判を加えれば加えるほど、日本の医療水準は向上する」というイデオロギーを刷り込むことにマスメディアは深くコミットしてきたと私は思う。
院内暴力をふるう人々ひとりひとりが別にとりわけ邪悪な人間であると私は思わない。
彼らは「ふつうの人」である。
「ふつうの人」が暴力的になるのは、「医療従事者に対しては暴力的にふるまっても罰せられない」という「社会の空気」を読んでいるからである。
市民的常識を疑われ、民事刑事さまざまのペナルティを受ける覚悟の上で、「院内暴力」に踏み切るほど果断な患者はそうはいない。
院内暴力をふるう人々の80%は、「そういうことはよくない」と教えられれば「そういうこと」をしない人たちである。
その人たちが「そういうこと」をするのは、「そうすれば医療が改善される」という「刷り込み」があるからである。
彼らは「ほとんど善意」に基づいて、医療従事者を罵倒し、こづき回すのである。
数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。
医療も(教育と同じく)商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである(覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である)。
患者は(消費者として)「最低の代価で、最高の医療サービスを要求する」ことを義務づけられる。その「ニーズ」に応えることのできない医療機関は遠からず「マーケット」から退場する。その結果、最高の費用対効果で、最良の医療サービスを提供する医療機関だけが「淘汰」を生き延び、日本の医療水準はますます高まる。だから、患者もまた医療機関に対して、できるだけ少ない代価で、最高のサービスを要求「すべき」なのだ。
政治家たちはそう考えた。
マスメディアもその尻馬に乗った。
その頃、私は医療における「賢い患者になろうキャンペーン」とか「インフォームド・コンセント」論といった「政治的に正しい医療論」に対して、「こんなことを続けたら、日本の医療は崩壊する」と繰り返し警告していた。
医療とはかかわりのない素人の論であったが、医療メディアは私の主張を何度も取り上げてくれた。
だが、マスメディアから「医療に関する意見」を徴されたことは過去に一度もない。
それは私の意見がマスメディアの主張とまったくなじまないものだったからである。
さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。
たぶん、そう思ってもいないのだろう。
すでに何度も引用しているものだが、もう一度繰り返す。
土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境、道路、上下水道、公共交通機関、電力、通信施設などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本は、「社会的共通資本」と呼ばれる。それは、広い意味での人間の生きる「環境」を形成する。
社会の土台である。
その要件は、軽々に変化してはならないということである。
「社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。(・・・)社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである。」(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、22頁)
メディアは「社会的共通資本」について、これがきわめて重要な概念であることを知りながら、決して論及しない。
メディアが「社会的共通資本」に算入されていないからである。
メディア知識人が「職業的専門家」にリストアップされていないからである。
メディアは人間が生きる環境としては「あっても、なくても、どちらでもいい」と宇沢先生が思っているから、メディアはこのような理説が存在すること自体を「無視する」のである。
そして、職業的専門家以外が容喙すべきではないとされた、あらゆる分野に手を突っ込み、それをあるときは「政治的正しさ」にリンクし、あるときは「市場のニーズ」にリンクして、専門家によってさえコントロール不能なものにする。
人間の生きる環境そのものが人間のコントロールを離れた状態になること、それをメディアは無意識のうちに臨んでいる。
「カオス」と「カタストロフ」に対する「抗い難い欲望」がメディアを駆動している(それが最高の「ニューズ」であり、そのような破局的状況においてメディアに対する市場の需要は頂点に達するからである)。
混沌と破局を求めるのは、人間の本性の一部であるから、そのような欲望を「持つな」ということは誰にも言えない。
けれども、そのような欲望に駆動されてあることについて、メディアの当事者はもう少し自覚的であってもいいのではないか。

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2010年08月04日 10:26 に投稿されたエントリーのページです。

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