『借りぐらしのアリエッティ』を観てきました

2010-07-26 lundi

ジブリの『借りぐらしのアリエッティ』を観てきた。
ジブリの新作だけは、映画館で見ることにしている。
『BRUTUS』の宮崎駿特集にも書いたけれど、宮崎駿の映画的達成については語るべきことが多い。
それはたぶん宮崎駿という人が、あまり「テーマ」とか「メッセージ」とかいうことを深く考えず、「描いて気持ちがいい絵」、「観て気持ちがいい動き」に集中しているからだろうと思う。
身体的な「気持ちのよさ」をもたらす要素は多様であり、私たちはそれを完全にリストアップすることはできない(半分もできない)。
でも、ひとつは確実にわかっている。
それは「ヒューマンスケールからの逸脱」である。
日常的な生活身体を以てしては決して経験することのできない「速度」や「高度」や「風景」や「体感」に同調することである。
凡庸な作家は、日常的には禁圧されている暴力とエロスを描けば「気持ちが良くなる」と思っている。
けれども、暴力的・エロティックな方向への「逸脱」はすでにフィクションの世界では擦り切れるほど使われすぎたせいで、「ほとんど日常」と化しており、異常な強度によるか不意を衝くような提示によってしか「震え」をもたらさない。
宮崎駿は久しく「飛行」と「疾走」のもたらす身体的快感をどのように観客に追体験させるかに技術的な工夫を凝らしてきた。
『借りぐらしのアリエッティ』も、非日常的な仕方で身体を使う主人公に同調することで映画的快感を経験するというスキームそのものは変わらない。
けれども、今回ははじめて「非日常的縮尺」という仕掛けを用いた。
主人公は「床下のこびと」であるから、人間の世界の事物はどれも桁外れに、非人間的に巨大なものとして映現する。
『ガリバー旅行記』で主人公が「巨人の国」を訪れるエピソードにおいて、スウィフトは巨人たちを「スケールが巨大化しただけで、あとはふつうの人間と同じ生き物」として描いた。
スケールを巨大化するだけで、生物の印象は一変する。
ガリバーはそこで、人間の体臭がどれほど耐えがたいものか、人間の皮膚の毛穴がどれほど汚ないものか、人間のたてる物音がどれほど耳障りなものかを思い知らされる。
『アリエッティ』でも、ガリバーと同じ工夫がなされている。
人間の立てる音は巨大な、轟音に類するものとしてこびとたちの耳に届く。
少年が最初にアリエッティに語りかける静かな声は、アリエッティの耳には(観客の耳にも)ざらついた轟音のように響く(映画が進行するにつれて、音量はしだいに絞り込まれて、「ふつうの声」に聞こえるようになるけれど)。
面白かったのは、「水滴」の描き方である。
こびとたちの基準では水の粒子はかなり巨大なものになる。
アリエッティ一家がお茶をしたりスープを啜ったりする場面が何度か繰り返されるけれど、その「水分」はほとんど「そばがき」のような「かたまり」なのである。縮尺的にはこれで正しい。
だから、たぶん「水を飲む」ときに、こびとたちは私たちが「トマトをまるごと呑み込む」ような抵抗感を喉に感じるはずである。
それに近い違和感を私たちは映像的に経験する。
「こびとと人間」のサイズの差はもっぱら視覚的に表象されるはずだという常識を裏切って、こびとの世界では「モノそれ自体」が触覚的に違う仕方で切迫してくる。
これはすばらしい着眼点である。
けれども、それだとすれば、その触覚的な違和感はほかのものに対してもひとしく適用されるべきではなかったかと思う。
映画のクライマックスはアリエッティと翔が指を触れあうところだけれど、ここで私は軽い失望を覚えたことを告白せねばならない。
なぜか人間の皮膚はこびとの皮膚と同質に描かれていたからである。
ガリバーの報告に従うならば、こびとの眼には人間の指先は深い溝が刻み込まれ、さまざまな分泌物や埃や汚物の詰まった、大小無数の「丘」の連鎖のように見えるはずである。
もちろんそこまでリアルに描く必要はないけれど、せめて「深い溝」くらいは描いて欲しかったと思う。
その触覚的違和感が感知できれば、人間とこびとの共生不能というアリエッティ一家の結論に観客は深く同意できたと思うのだが。
もちろん、それはジブリ内部ですでに議論された論件だと思うのだが、なぜ、「皮膚の質感を同じように描く」という結論に達したのか、その理由を宮崎駿に尋ねてみたい気がする。
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