教授会のさいちゅうに携帯が鳴って、廊下で出たら、某新聞から電話取材。
本日、菅新首相の所信表明演説があったけれど、新内閣についての感想は・・・というご下問である。
こちらは授業と会議で、演説聴いてないので、なんとも言いようがないけれど、とにかく直前の内閣支持率20%が3倍にはねあがるというのは「異常」だと申し上げる。
菅首相自身は前内閣の副総理。主要閣僚もほとんど留任であり、政策の整合性を考えるなら、前政権から大きく変化するということはありえないし、あるべきでもない。
もし、首相がかわったせいで政権の性格が一変するというのなら、それは副総理であったときの菅直人の政治的影響力が「かぎりなくゼロに近い」ものだったということを意味する。
副総理のときに政策決定にまったく関与できなかった政治家が、1ランク上がったせいで、圧倒的な指導力を発揮するという説明を私は信じない。
菅新首相は前内閣の枢要の地位にあった。
だから、前政権が繰り返し致命的な「失政」を犯したというメディアの報道が真実なら、「A 級戦犯」として指弾されなければならない人物である。
そうではない、すべては鳩山由紀夫という人物の属人的無能ゆえの失政であり、閣僚には何の責任もないというのが、新政権およびメディアのとりあえずの「総括」のように思われるのだが、私はこのような「属人的特質によって、複雑な問題を単純化する傾向」のことを「キャラ化」と呼ぼうと思う。
「キャラが立つ」ということを言い出したのは小池一夫である。
劇画の世界では小池以来ひさしく「キャラ」の立ち上げが最優先事項とされてきた。
キャラが立てば、ストーリーはあとからついてくる。
どういう「カラフル」なキャラを創造するか、そこにマンガ家の力量が現れる。
これはウラジミール・プロップ的物語構造の定型性から脱却するための、画期的なアイディアだったと私は思う。
きわだった「キャラ」は物語の定型的な流れを打ち破り、因習的な登場人物たちであれば、決して「言うはずのないこと」を語り、決して「するはずがないこと」を断行してしまう。
小池一夫が「キャラ」という言葉を言い出したときにめざしていたのは、そのような人物設定上の「法外さ」によって、マンガの世界に自由をもたらしきたすことだった。
と私は思う。
けれども、あらゆる創意は定型化する。
「キャラ」もまたたちまちのうちに定型に回収された。
キャラの派手さによって、ストーリーの定型性は隠蔽される。
キャラにさえ「新奇性」があれば、物語はどれほど古くさくても、黴臭くても、「新製品」として通用する。
そのようにして、「凡庸な物語の上を、わざとらしく新奇なキャラが走り回る」という現在のマンガ状況の「ダークサイド」が形成されることになったのである。
この「キャラの斬新性によって、物語の定型性を隠蔽する」傾向は、そののちマンガを源流に、あらゆるジャンルに浸潤していった。
小説にも、音楽にも、演劇にも、そしてもちろん政治にも。
小泉純一郎以来の歴代の短命政権があらわにしたのは、私たちの政治構造はソリッドな「定型」に取り込まれており、そこから脱出するためにはラディカルな変革以外に手立てがないのだが、それだけの力を政治家たちは持っていないので、しかたなしに「キャラ」を付け替えることで、「あたかも変革が試みられている」かのような様相を仮象することで、有権者たちのうつろな希望を満たそうとしてきた、ということである。
鳩山政権を罵倒した同じ有権者が菅政権に「期待する」ということは、論理的にはありえない。
そのありえないことが起きるのは、有権者自身が政治過程を「キャラ」の交代劇としてしか見ていないということを意味している。
根本構造は変わらない。
「キャラ」だけが変わる。
私はそのような表層的な変化に期待すべきではないと思う。
それは私が菅政権を支持していないということではない。
私はこの政権にはせめて2年くらいは続いて欲しいと思っている。
そして、有権者たちがこの「キャラ」たちにも飽き始め、「次のキャラ」への付け替えを望みだしても、そのようなうつろな「ニーズ」に応じることなく、私たちの国の政治的定型を形成している「構造」そのものに肉迫する作業に愚直に専念してもらいたいと思うのである。
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(2010-06-12 10:48)