疾走する文体について

2010-06-04 vendredi

英文学者の難波江和英さんと同僚として過ごすのもあと一年。
最近はふたりとも学務が忙しいし、難波江さんは長くご両親の介護をされているので、むかしのようにゆっくり遊んでいる暇がない。
そこで、「先生ふたりゼミ」をやることにした。
メディア・コミュニケーション副専攻の第四学期の演習科目がそれである。
これだと週に一度必ず90分間おしゃべりできる。
それも主題限定。言語の問題、それだけである。
きわだった言語感覚をもつこの文学研究者から同僚として影響を受けるこれが最後の機会である。
毎週いろいろなテーマで学生を巻き込んで熱く語り合っている。
何かを学生に教えるというより、私たちが対話をつうじて「発見」していることを学生たちにもリアルタイムで共同経験してもらうというような授業である。
昨日のテーマは「文体は疾走する」。
ドライブする文体と、そうでない文体がある。
すぐれた作家は一行目から「ぐい」と読者の襟首をつかんで、一気に物語内的世界に拉致し去る「力業」を使う。
マトグロッソでNSPJをやっているので、一般のひとたちの書いたショートストーリーを150編ほど読んだ。
素材的には面白いものがたくさんあった。
文章も上手である。
けれども、「一気に読ませる」ものはまれである。
数行読めば、わかる。
書き手の立ち位置が「遠い」のである。
眼に見えるし、声も聞こえるのだが、体温がしない。
息づかいが伝わってこない。
「一気に読ませるもの」では、一行目でいきなり書き手がもう耳元にいる。
え、いつのまに・・・というくらいみごとに「間合いを切って」いる。
つまり、「一行目から話が始まる」のではなく、「もう話は始まっているのだが、それはたまたま私にとっては『一行目』だった」ということである。
「ぐい」と物語世界の中に拉致し去るような力というのは、要するに書き手の構築しているストーリーの世界の「堅牢さ」なのだと思う。
堅牢で、精緻に作り上げられ、そこにずいぶん長く人が住んでいる構築物に固有の堅牢さである。
そういう建物にはいくらでも入り口がある。
正門から入ってもいいし、裏口から入ってもいいし、窓から入ってもいい。
現にそこで暮らしているんだから。
読み手がどこにいようと、世界が堅牢であれば、私たちはたちまち物語の中に入り込むことができる。
「ここから以外には入れません。順路通りに進んでください」というような指示がされると、微妙に「つくりもの」くさく感じる。ベニヤ板にペンキを塗ったものを並べたものを見せられているのではないかというような気がしてくる。
疾走感のある文体とはどういうものか。
それについて六冊の本の冒頭部分を読んだ。

最初は高橋源一郎『「悪」と戦う』(2010)。
これは週刊現代に書評を書いたばかりである。既発のものだからブログで再録してもいいだろう。

 290頁の本ですけど、読み出して十数秒後には物語の中に引きずり込まれて、「あれよあれよ」という間に100頁まで一気読みしてしまいました。さすがにそこまで読んだところで本から顔を上げて、ようやく「ふう」と息をつきました。なんというドライブ感。高橋源一郎にしか書けないタイプの疾走感のある文章です。知り合いの編集者が「太宰治みたい」と読後の印象を語っていたけれど、たしかにその通り。どういう条件が整うと、作家はこれほどまでに「疾走感のある文章」を書けるのか。息継ぎのついでに、先を読むのを止めてそれについて考えました。小説はこんなふうに始まります。
「キイちゃんは一歳半になりました。でも、ことばが遅い。ことばの発達が遅れている。ああ、この言い方でいいんでしょうか。『ことばが遅い』とか『ことばの発達が遅れている』とか。でも、いいや。間違っていても。それより、キイちゃんのことばの発達のことが心配です。」
 高橋さんの文体のギヤは「ああ」で二速に入り、「でも」で三速に入り、「それより」で「トップギヤ」に入ります。三行でトップスピード。すごい。太宰の「死なうと思ってゐた」とか「子供より親が大事と思いたい」の「一行目からトップギヤ」というワールドレコードにはちょっと届きませんけど、現代作家たちの「ゼロヨン競争」があったら、間違いなく高橋源一郎がぶっちぎりのチャンピオンでしょう。
ゼロヨン超高速で言葉が紡がれるためには先行的な「プラン」は不要です。「プラン」があれば、まっすぐ目的地に向かえるから、文体は速度を獲得するだろうと考えるのは間違い。この文体の速度は、崖から滑り落ちてゆく人間が手に触れる限りのでっぱりやくぼみや木の根や蔦に指を絡めようとする運動の速さに近いです。どこに落ちてゆくのかわからないまま、必死で崖面を探っている「落下者」の指先は「つかめるもの」と「つかめないもの」を触れた瞬間に判断します。その敏感な指先が選び出した「ホールド」となりうる言葉だけが小説を構成したとしたら、そこには無駄な言葉が一つもない小説が出現することになる。理論的にはそうですね。たぶん高橋さんは「そういう小説」を書こうとしたのだと思います。
そのためには、作家その人を今まさに呑み込もうとしている「メエルシュトレエム」に飛び込んでみせなければならない。高橋さんが選んだ大渦は「悪」でした。そして、そこに巻き込まれるのは高橋さんの物語的分身ではなく、「子ども」です。経験知の不足している「子ども」の見る「地獄」の風景はたぶん大人が経巡るときよりもずっと生々しいものになります。その物語の結構から言うと、本作は『ハックルベリー・フィンの冒険』とや『ライ麦畑のキャッチャー』の直系につらなるものかも知れません。
「愛」は「悪」を制御することができるか(「勝てるか」とは言いません)。それは高橋源一郎の全作品に伏流する神話的な主題ですが、それがここまで真率に提示されたものを読むのはひさしぶりのことです。

ほかに例としてあげたのは、村上龍『69 sixty nine』、織田作之助『夫婦善哉』、中島敦『名人伝』、夏目漱石『草枕』。そして決定版がこれ。

「撰ばれてあることの
恍惚と不安
二つわれにあり
ヴェルレエヌ
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉である。着物の布地は麻であつた。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。」
これは小説の「イントロ」としては近代文学史の達成のひとつであろう。(個人的趣味を言わせてもらえば、やはりこれは旧仮名遣いで「死なうと思つてゐた」としたいところだけれど)
授業は『「悪」と戦う』のイントロと『晩年』のイントロが構造的にきわめて近いという論件から始まった。
どこが似ているのか。
それについては各自、もう一度二作を読み比べて(ただし高橋さんの本の方はもう二頁ほど先まで)、お考えいただきたいと思う。
私の考えでは共通点は二つ。
一つは「他人の言葉」がいきなり闖入してくること。
一つは「墜落する」、である。
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