論争するの、キライです

2010-04-07 mercredi

『考える人』の春号が届いたので、開いてみると、「聖書特集」にレヴィナスについてのインタビューが出ていて、「日本の身体」第十回で大相撲の松田哲博さんとの「シコとテッポウ」対談が出ていて、なかほどには福岡伸一ハカセとの「動的平衡と贈与経済」についての対談が出ていた。
いくらなんでも季刊誌の同じ号に別のトピックで三回登場させるというのは、「番組編成」上無理があるのでは・・・
いや、私はいいんですけどね、もちろん。原稿料いただけるわけですから。
でも、読者の方々がどうお思いになるか。
「げ、またウチダだよ。おい、この本、どうなってんだよ」
そういうリアクションがただいま日本全国津々浦々でなされているのではないか、と。
いや、私はいいんですけどね。もちろん。
そりゃ、『Sight』のような渋谷くんの個人誌の場合であれば、「源ちゃん、まだ来ないみたいだから、待ってる間に、ウチダさん、『婚活』話で一本取っちゃおか」的な紙面構成は経費的に「あり」だと思いますけど。
とまあ、そういうわけで、世にも珍しい「一冊に同一人物三たび回帰号」です(バルザックじゃないですけど)。
このところ政治がらみの取材やインタビューが続く。
某月刊誌で、某超有名政治評論家との対談をオッファーされるが、お断りする。
そのような本筋のメディアで、専門家相手に語るような知見を私は有しておらないからである。
私が源ちゃんとおしゃべりしているのは、あくまで素人の「床屋政談」を楽しんでいるのである。
むしろ、政治学や政治史の専門家が読んだら、「こめかみに青筋を立てて激怒する」ようなことだけを選択的にしゃべっている。
だから、理の当然として、そのような方々と会ってしゃべったら、先方は「こめかみに青筋を立てて激怒する」に決まっている。
そちらも当然不愉快であるし、私も「素人が何をほざくか。口を噤んで黙っておれ」と一喝されれば気分が悪い。
両者ともあまり楽しくない。
だから、お断りするのである。
そもそもこの手の対談の企画というのは、どういう視点から構想しているのか、よくわからないことが多い。
「談論風発、話がどっと盛り上がり・・・」という視点からではなく、「ハブとマングースのどづきあい」というようなものを期待して企画しているケースも散見される(どころではない)。
これは対談会場で「襟首つかみ合っての乱闘」ということになると、両名の本が売れ、場外乱闘となって相互に罵倒するところまで持ち込めば、週刊誌月刊誌がおもしろおかしく煽り立て・・・という、メディアの営業上たいへん「おいしい」展開になることが予測されるからである。
ビジネスマインド的には、「論争を仕込む」というのは「あり」である。
けれども、つねづね申し上げているように、人文系の領域での論争というのは、最終的には脊髄反射的な揚げ足取り能力と性格の悪さで決する。
私はこれまでいくつかの論争を読者として見てきたが、論争の勝者から学んだ知見はあまり多くない(というか、ほとんどない)。
むしろ「論争で勝つ側の人間は、別のかたちで何かを、それも論争の勝利で得たよりも多く失う」ということを学んだように思う。
だから、そういう剣呑なものには近づかないことにしている。
以前、他人の技を批判してはいけない、と多田先生に教えていただいた。
どうして他人の技を批判してはいけないのですか、と先生にお訊ねしたら、先生は「他人の技を批判しても、自分の技がうまくなるわけではないからだ」と答えられた。
そして、「批判して上達するなら、俺だって一日中他人の技を批判してるよ」と破顔一笑されたのである。
けだし武人の風儀というべきであろう。
あるとき橋本治さんが、ある高名なフェミニストが対談したことがあった。
はじめて会って、しばらく歓談して、では収録をというときになったら、橋本さんの姿がなかった。
家に帰ってしまったのである。
「ああ、この人とは、話すことが何もない」と思ったからだそうである。
これもまた士大夫の風儀と言うべきであろう。
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