定型と批評性

2010-04-05 lundi

マスメディアの凋落について毎日原稿を書いているせいで、ものの見方が偏ってきているのかも知れないが、今朝の毎日新聞の一面のコラム「余録」にも、思わず反応してしまった。
コラムは「決断」をめぐるもので、鳩山首相の決断力のなさと、最近の「発奮」ぶりをいささか嘲弄的に紹介している。

「普天間基地問題でも『体当たりで行動していく』『必ず成果を上げる』と歯切れがいい。先週の内閣メールマガジンでは『未来に向けて時計の針をもっと勢いよく回せるような政府をつくりあげていきたい』とアピールした。だが、沖縄県民、米国、連立与党のいずれをも満足させる道がこれから急に開けるようにも思えない。『針の穴にロープを通すくらい難しい』ともらしたことがある首相だ。何を選び何を捨てようとしているのか。『腹案はある』と自信ありげな腹の内を見てみたい。」(毎日新聞、4月5日)

「よくあるコラム」である。
こういう書き方を日本のジャーナリストたちは「批評的な」ものとして、たぶん無意識に採用しているのだとおもう。
彼らは自分たちが「批評的定型」にはまり込んでいること、鋳型から叩きだすように同型的な言葉を流していることに、あまり自覚的ではない。
だが、「批評的定型」というものは残念ながら存在しない。
批評性というのは、ぎりぎりそぎ落とせば、「定型性に対する倦厭」のことだからだ。
だが、このコラムの文章には「定型性に対する倦厭」がない。
たしかに、どんな人間のどんな文章も、それなりの定型にはとらえられてしまうことからは避けられない。
定型から逃げ出そうとすれば、シュールレアリスト的饒舌かランボー的沈黙のどちらかを選ぶしかないと、モーリス・ブランショは言っている。私も同意見である。
ひとは定型から出ることはできない。
だが、定型を嫌うことはできる。
定型的な文章を書いている、そういう文章しか書けない自分に「飽きる」ことはできる。
「飽きる」というのは一種の能力であると私は思っている。
それは自分の生命力が衰えていることを感知するためのたいせつなセンサーである。
「飽きる」ことができないというのは、システムの死が近づいていることに気づいていない病的徴候である。
このコラムの文章に私が感じたのは、その病的徴候である。
どうしてこのコラムニストは自分の書いている文章に飽きないでいられるのか。
それについて考える。

コラムが首相に求めている「沖縄県民、米国、連立与党のいずれをも満足させる道」などというものは存在しない。
存在するのは「沖縄県民、米国政府、日本政府(さらには中国、韓国、台湾など周辺諸国)のいずれにとっても同程度に不満足な道」だけである。
外交上のネゴシエーションというのは「全員が満足する合意」ではなく、「全員が同程度に不満足な合意」をめざして行われる。
「当事者の中で自分だけが際立って不利益を蒙ったわけではない」という認識だけが、それ以上の自己利益の主張を自制させるからである。
それがふつうの外交上の「落としどころ」である。
外交というのは、当事者の「いずれをも満足させる道」だとこの論説委員が本気で信じているとしたら、それはずいぶん夢想的な考え方であると言わねばならない。
だが、私はこの論説委員はそんなことを信じていないと思う。
それほどイノセントで夢想的な人間が、タイトな人間関係やどろどろした派閥力学を乗り越えて、ある程度の社内的地位に達せるはずがないからである。
彼自身は「当事者全員が満足するようなソリューション」などというものが存在することを信じていない。
それを生身の経験では熟知しているはずである。
にもかかわらず、コラムには「自分が信じていないこと」を平然と書ける。
私はこれを「病的」と申し上げているのである。
自分が信じていないし、そう思ってもいないことを書けるのは、彼が自分の仕事を「自分の意見」を述べることではなくて、「いかにも大新聞の朝刊のコラムに書いてありそうなこと」を書くことだと思っているからである。
これは誰の意見でもない。
「世論」である。
「世論」というのは、「それを最終的に引き受ける個人がいない」意見のことである。
というと異議を申し立てる方がいるかもしれない。
マジョリティが支持しているものが「世論」ではないのか、と。だったら、多くの個人がその主張の責任を進んで引き受けるのではないか、と。
違います。
人間が引き受けることのできるのは、「自分の意見」だけである。
「自分の意見」というのは、「自分がそれを主張しなければ、他に誰も自分に代わって言ってくれるひとがいないような意見」のことである。
「自分が情理を尽くして説得して、ひとりひとり賛同者を集めない限り、『同意者集団』を形成することができそうもない意見」のことである。
それは必ずしも「奇矯な意見」ではない。
むしろしばしば「ごくまっとうな(ただし身体実感に裏づけられているせいで、理路がやたらに込みいった)意見」である。
なにしろ、自分が言うのを止めたら消えてしまう意見なのである。
そういうときに「定型」的な言いまわしは決して選択されない。
なぜなら、「ああ、これはいつもの『定型的なあれ』ね」と思われたら「おしまい」だからである。
決して既存のものと同定されることがなく、かつ具体的にそこに存在する生身の身体に担保された情理の筋目がきちんと通っているような言葉づかいを選ぶはずである。
それが「自分の言葉」である。
小林秀雄ふうにいえば「考える原始人」の言葉である。
「世論」とはその反対物である。
誰もそれについて最終的に責任を引き受ける気がないにもかかわらず、きわめて多くの人間の支持を得る意見には、身体実感という「担保」がない。
「みんながそう言っている」ことを自分もただ繰り返している。
「なぜ、あなたはそう言うのか?」と訊かれたら「あの人が言ってたから」と答えて、発言の責任は無限に先送りされて、どこかに消えうせる。
それが「世論」である。
このコラムは典型的な「世論」の語法で書かれている。
新聞のコラムというのは「そういうものだ」という醒めた感懐をたぶん持って、このコラムニストは定型を書き飛ばしている。
それが書けるのは「自分が書かなくても、誰かが同じようなことを書くだろう」と思っているからである。
たぶん、多くの記者たちは、そう自分に言い聞かせて「定型」的な文章を書く自分との折り合いをつけているのだろう。
自分が書かなくても、どうせ誰かが書くのだから、自分ひとりがここで「こういうのを書くのはもういい加減にしないか」と力んで見せても始まらないと思っている。
新聞の凋落にはさまざまな説明があるけれど、「私には言いたいことがある。誰が何と言おうと、私は身体を張っても、これだけは言っておきたい」というジャーナリストがジャーナリストであることの初発の動機をどこかに置き忘れたためではないのか。
私にはそのように思われるのである。
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