基地をめぐる思考停止

2010-01-27 mercredi

名護市長選挙で、普天間基地の県内移転に反対する候補者が当選し、これにより06年に自公政権が米政府と合意した米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)への移設が困難となった。
鳩山政権は移設先の見直し作業を加速させる方針だが、米側は当初の合意の履行を求めており、解決のめどは立っていない。
普天間基地問題は無数の「問題」のかたまりである。
基地そのものが地域住民の生活被害をもたらしており、その除去を求める生活者の「民意」がある。
基地経済に依存してきた沖縄の政官業複合体にとっては、基地は中央からの予算と公共投資を引き出すための「人質」である。
日本政府にとって、基地の県外国外撤去を求めるということは、沖縄米軍基地の核抑止力が戦後65年間の「平和」を担保してきたという「政治的常識」に疑問をなげかけることを意味する。
アメリカ国民にとって、西太平洋に展開する米軍基地は19世紀末の米西戦争でフィリピン、グアムを手に入れて以来、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争とアメリカの青年たちの血で贖ってきた「アジア覇権」の象徴であり、ここから「撤退する」ということは、19世紀以来のアメリカの国是であった「西漸戦略」そのものの間違いを認めることを意味する。それは国民的統合の「物語」に亀裂を走らせるだろう。
というように、基地問題かかわっている人々の「譲れない一線」にはさまざまなものがあるが、その「一線」はどれも水準が違う。
名護市市民の「生活実感」とアメリカ国民の「国民統合幻想」を比べて「どちらを優先させるべきか」というような議論をしても始まらない。
それぞれに切実であり、その「切実さ」の種類が違うからである。
だが、正解がない問題は解けないということでもない。
現に、人間世界のもめごとの過半は解がないにもかかわらず、私たちはけっこうやりくりしてきたのである。
全員が満足するような解がみつからない問題については、「全員が同じ程度に不満足なあたりを『おとしどころ』にする」というのが政治の骨法である。
「三方一両損」である。
ただし、「全員が同じ程度に損をするおとしどころ」を提唱する人間にはひとつの資質が要求される。
『三人吉三』でも『大岡裁き』でも、そうだが「全員が痛む和解案」を持ち出すのは、和尚吉三であれ大岡越前であれ、その場でいちばん実力のある人間である。
「どうだい、オレもここは損をかぶる覚悟だから、どちらも引いちゃくれねえか」という台詞をぐいっと渋く唸るのが調停の骨法である。
沖縄に限らず、東アジアにおける基地問題は、アメリカが「和尚吉三」や「大岡越前」の役を演じれば、たぶん解決する。
でも、アメリカにはそんな役を演じる気がない。
アメリカはこれまで実に多くの国際紛争の調停を試みてきたが、「調停者」としての能力はきわめて低い。
日本の政治学者で「アメリカは調停能力が低い」ということをはっきり指摘する人は少ない(私は見たことがない)が、アメリカは敵対関係にある二者を中立的立場から調停する能力が非常に低い国である。
かの国の政治家や外交官の個人的な知的なクオリティの高さと比べたとき、彼らの周旋能力が「異常に低い」ことには私たちもいい加減気づいてよいと思う。
知的に卓越している人間が、ある領域の活動に限っていきなり思考停止するというのは「よくあること」である。
それはそれが彼らの国民的統合の「クッションの結び目」point de capiton である場合である。
アメリカの国民的統合は「敵対関係をどちらもちょっとずつ損するというような落としどころで調停することはできない」という原則の上に成り立っている。
植民地と本国の「それぞれ譲れないお立場というものがあるわけですから、どうですここはひとつナカとって・・・」というような調停者の介在を許したら、そもそもアメリカ合衆国という国は存在しなかったのである。
いかなる調停も拒否。私は絶対正しいので譲歩しない、と言い募ることでアメリカは今日の大をなした。
その成功体験がアメリカ人において「調停」や「譲歩」や「落としどころを探る」といった種類の政治的技術を涵養することを妨げた。
この選択的な領域における政治的無能は基地問題のようなデリケートな問題においてとりわけ前景化する。
アメリカはご存じのようにキューバにグァンタナモ軍事基地というものを所有している。
どうしてアメリカがキューバ国内に「飛び地」を領有しているのか、その理由を知っている人はあまり多くない。
キューバでは19世紀なかごろから宗主国であるスペインの植民地支配からの独立を求める民族解放闘争が展開していた。独立運動がスペインを押し戻し、全土の半分ほどを支配し、独立戦争の勝利が目前に迫ったときに、ハバナに停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号が原因不明で爆沈した。
これをスペインの敷設した機雷との接触と判断したアメリカは、反スペイン感情で過熱した世論を背景に、キューバ独立戦争へ武力介入。キューバ全島からスペイン軍を駆逐した(メイン号爆沈の原因はその後の調査でエンジントラブルによる自損事故だったという解釈が定説になっている)
そして、アメリカの属領化した。
1902 年制定のキューバ憲法にはプラット修正条項なる項目が存在するが、そこにはアメリカの内政干渉権を認めること、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所に恒久的な米軍基地を置くことが規定されていた。
そのようにしてアメリカは 1903 年にグァンタナモ湾を永久租借し、今に至るのである。
アメリカの在外軍事基地についての考え方の基本は、このグァンタナモ基地の所有に示されると私は考えている。
アメリカ国民の過半は今でもグァンタナモ軍事基地を所有していることは「政治的に正しい」と信じている。
オバマ大統領もグァンタナモ基地へのテロ容疑者の収監と拷問については批判的で、収容施設の閉鎖については提言しているが、基地そのものの返還については言及していない。
そんなことに言及したら「売国奴」呼ばわりされることがわかっているからである。
アメリカが沖縄の基地を返還するということがありえないのは、保守派の政論家たちが言うように、それが対中国、対北朝鮮の軍事的拠点として有用だからではない。
軍事基地が有用であるように見えるように、アメリカは対中国、対北朝鮮の外交的緊張関係を維持しているというのがことの順序なのである。
軍事基地を他国領内に置く合法的な理由は、「そこに軍事的緊張関係があり、それをコントロールすることがアメリカの責任である」という言い分以外にないからである。
だから、沖縄の基地問題は、単なる軍事技術や外交の問題ではなく、アメリカが「思考停止に陥るマター」という国民的トラウマの問題だと申し上げているのである。
基地問題を論じるさまざまの文章を徴するときに、「アメリカがそもそも他国領内に軍事基地を持つことにいかなる合法性があるのか?」という根本的な議論はきまってニグレクトされている。
それはアメリカ人がその論件については自動的に思考停止に陥るからであり、アメリカ論を「アメリカ人がアメリカを論じるフレームワーク」で語るすべての「専門家」もひとしくその「思考停止という病」に罹患しているからである。
--------