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若手研究者育成事業の削減について

「事業仕分け」によって、若手研究者への助成金に大鉈がふるわれた。
それについての記事が配信されてきたので、採録する。

「来年度予算の無駄を洗い出す行政刷新会議の事業仕分けで、文部科学省の若手研究者育成事業が「削減」と判定された。博士課程在籍者らに経済的不安を感じさせず、研究に専念させることを狙った事業だが、「成果目標が明確でない」などとみなされた。
このままでは研究が立ちゆかなくなる――。京都大大学院生らは、予算削減に反対する要望書を文科省に送る「メール作戦」に乗り出した。

3日夜。京都大のキャンパスの一室に、人文・社会科学系の院生ら7人が集まった。メンバーは「予算削減は若手研究者の意欲を喪失させ、科学の発展を損なう」などとする要望書を練り上げた。要望書に各自の主張を書き加えて、文科省にメール送信し、財務省に働き掛けてもらうことを決めた。

他大学院などの研究者らにも要望書を送り、メール作戦の輪を広げる。研究会やシンポジウムでは、予算削減反対の署名を募るという。

科学技術関連予算の削減、廃止判定をめぐり、理系は、ノーベル賞受賞者ら5人が記者会見して反対を表明、多くの学会が意見書や要望書を文科省に提出している。しかし、個人の研究が中心の人文・社会科学系は、反対運動が立ち遅れている。」

人文系で運動の中心になっているのは文化人類学のようなフィールドワーカーたちらしい。
フィールドに出る研究者にとって、助成金の削減は研究上の死活問題である。削減に対してつよい反対の声が上がるのは当然である。
一方、書籍を読むことが中心の人文系研究者たちにとって、助成は「奨学金」に近い。
それによって、バイトをせず、研究中心の生活ができる保証にはなるが、その生活支援が直接研究に役立っていることを客観的に証明することはむずかしい。
論理的に言えば、「研究者の生活を支える」ことは「研究活動を支える」こととイコールにはならない。
専任ポストのある教員についての支出は「生活費」ではなく「研究費」とみなすことができるが、非正規雇用のポスドクたちへの支出の一部は「生活費」に充当される。
納税者感覚でいえば、国費を「研究」という抽象的なものに投じることには抵抗がないが、国費を「家賃」や「私物」の購入に当てることには抵抗がある。
そういうことだろうと思う。
以前、大学の研究助成金の一部で6800円の「扇風機」を買ったことがあった。
年度末の査定で「これには支出できません」と言われた。
そういわれればそうかと、納得してしまった。
書籍やパソコンは直接「知性」に働きかけるのだが、扇風機は「身体」に働きかける。
研究助成は「知性」を支援するが、「身体」には触れてはならない。
たぶんそういう理解でよろしいかと思う。
今回の事業仕分けは「研究のための原資を個人の生活支援に投じるべきではない」という原則に基づいたのではないかと思う。
私はこの原則には異論がある。
研究の場合、個別的なプログラムを支援することと、そのプログラムに従事している研究者を支援することは、最終的には「同じこと」だと思っているからである。
それは大学で「評価」ということをしてわかった。
私が起案した評価方法は、教員たちのアクティヴィティを数値化して、その数値に基づいて研究費を傾斜配分し、場合によっては昇任昇格や俸給にもリンクさせようという、まことに「グローバリスト」的なものであった。
ところがちょっとやってみてわかったことは、数値化できるのは「どうでもいいこと」だけで、研究教育の本質にかかわる活動はまったく数値化できないということであった。
そして、もっぱら数値化できない部分において、教員たちの「オーバーアチーブ」は果たされていたのである。
評価はこの「オーバーアチーブ」をゼロ査定した。
そのせいで、大学の研究教育活動に貢献しており、同僚に信頼され、学生たちに慕われている教員と「そうでない教員」のあいだの「差」が見えなくなってしまった。
評価活動は「どの教員にも給料分の仕事をさせる」ことを目指している。
そのせいで、「もらっている給料の何倍分も働いている教員たち」のフリーハンドを縛ってしまった。
給料分働いていない教員のもたらす損失はせいぜい彼らの「給料分」でしかない。
しかし、給料分以上は働いている教員のモラルを損なうことで失われるものは「給料分」では済まない。
科学研究上のブレークスルーは研究者のオーバーアチーブによってしかもたらされない。
しかるに、オーバーアチーブは予見できず、マネージできず、利益誘導できない
誰が、いつ、どういうきっかけでブレークスルーをもたらすかは事前にはわからない。
だから、ブレークスルーを軸に考えるなら、「どうやれば研究者は給料分の働きをするか」ではなくて、「どうやれば研究者は給料分以上の働きをするか」というプラクティカルな問いに向かうべきなのである。
その上で私は、「研究者に給料分以上の働きをしてもらうためには、潤沢な資金と余暇を与えて、放っておくに如かない」と考えている。
これは私が経験から学んだことである。
もちろん、それで無駄飯を食う研究者も(少なからず)いるであろう。
けれども、給料を食いつぶす研究者を野放しにしておくのは、オーバーアチーブする研究者を生み出すための「コスト」なのである。
そしてこのコストは費用対効果を見るかぎり、きわめて低額であると私は思っている。
今回の事業仕分けは「無駄飯を食うな」という原則で行われているように思う。
政治家たちはたぶん「無駄飯」抜きで、投じた研究助成の「すべて」が国民的利益として還元されるような研究のありようを要求している。
それは知性のパフォーマンスはどうすれば向上するかというテクニカルな問題を一度も真剣に考えたことのない人間の言いそうなことである。
若手研究者にはできるかぎり潤沢な研究助成と余暇を与えるべきだろうと私は思う。
もちろん、その相当部分はさしたる成果をもたらさぬであろう。
だが、それでも、そのような機会が与えられなければ決して実現することのなかった学術上のブレークスルーがあったらなら、私はそれだけで帳尻は合うと思う。
勘違いして欲しくないので、もう一度言うが、私は「研究者を特別扱いしろ」とか「尊敬しろ」とか言っているのではない。
学術上のイノベーションがいずれたらす利益と、研究助成の当座の支出の差し引き勘定はクールに行ったほうがいいと申し上げているだけである。

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2009年12月10日 14:29 に投稿されたエントリーのページです。

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