商品経済から贈与経済へ

2009-11-25 mercredi

教育関係の取材がある。
学生や若いサラリーマンたちにどうやってコミュニケーション能力をつけたらよろしいのかというテーマである。
別に起死回生の妙手というのはありませんとお答えする。
そう答えたら、片づかない顔をしていた。
誰でもすぐにできるような妙手があれば苦労はない。
コミュニケーション能力というは平たく言えば「生きる力」ということである。
そのようなものを汎用的教育プログラムとして「はいよ」とご提案することは誰にもできない。
ときどき「これさえやればコミュニケーション能力が一気に身につきます」というような「はいよ」本を書いている人がいるが、そういう本を書いている人を信用してはならない。
「信用できる人間」かそうでないかをみきわめるのは「生きる力」のもっとも基礎的なもののひとつであり、このような本を手にとってふらふらと買ってしまう人は、その一点においてすでに「生きる力」の伸びしろが少ないことが露呈してしまうのである。
人間の生きる力を高めるためには、長く、複雑なプロセスが必要であり、「それをひとつ即席で」という要請そのものが、生きる力を育てることを妨げているのである。
訊かれたって、日本の子どもたちが一気にコミュニケーションの達人になるような汎用性の高い教育プログラムがご提案できるはずもない。
繰り返し言っているように、ほんとうにたいせつな仕事は「雪かき」や「どぶさらい」のようなものである。
別に感謝もされないし、誰かに誇るものでもない。
「やらないとまずいよな」と思う人が自分の家の前から始める。
それだけのことである。

大学院のゼミでは「シンプル族」とか「カルチュラル・クリエイティブス」とか「ボボス」とか「ロハス」とかいう新しい消費者マーケットの動向についての発表がある。
新しい消費動向のキーワードは「ギルティフリー」と「サステナブル」。
「ギルティフリー」guilty free というのは「有責感のない」ということである。
自分が購入した商品はその製造過程・流通過程・廃棄過程のどこにおいても「悪いこと」(熱帯雨林の破壊とか、有害物質の垂れ流しとか、第三世界住民の収奪とか、産業廃棄物による環境破壊とか)に加担していないので、それを購入した自分の手が白いことにほっとするような商品がギルティフリーであるらしい(たぶん)。
サステナブルはわかりますね。
「持続可能性」sustainablity というのは「環境負荷が限界を超えない程度にちょっとずつ自然から富を取り出す」ことである。
前にも使った比喩だが、サラ金から多額の借金をかかえこんだ債務者を債鬼たちが取り囲んで「ぶっ殺すぞ、こら」と凄んでいるときに訳知りのオヤジが出てきて、「まあまあ、ここでこいつを殺しちゃったんじゃ元も子もない。どうでうみなさん、こいつはしばらく生かしておいて、ちょっとずつでも返済させることにすりゃ」と取りなす・・・というような情景を思い浮かべていただけばよろしいかと思う。
そういう商品が売れる、と。
なるほど。
悪いことではないが、それでも「どのような商品を選択するかによって、消費者のアイデンティティが基礎づけられる」という象徴価値イデオロギーそのものは手つかずのまま生き延びている。
今さらの説明だが、商品の価値は三つの形態をとる。
第一のものは使用価値。
これは商品そのものに内在している機能であり、誰が持っていても、どこにあっても変化しない。
タワシの使用価値は「それで鍋を洗うことができる」ということであり、これはタワシ本体に内在しており、(鍋を洗いすぎてタワシが損耗するまで)変化しない。
第二のものは交換価値。
これは商品そのものに内在している機能や性質とかかかわりなく、それに対する需要と供給の関係で決定する。
「猫に小判」「豚に真珠」という東西の俚諺が教えるように、需要のないところでは「そことは違う場所」ではどれほど貴重なものであっても無価値である。
人外魔境で、暖を取るために札束をじゃんじゃん燃やす場面がときどきあるが、それが交換価値の図像的表現だと申し上げてよろしいであろう。
『イルザ シベリア女収容所 悪魔のリンチ集団』ではダイアン・ソーンが、『クリフハンガー』ではシルヴェスター・スタローンが景気よく札束を燃やしているが、この人たちを観ていると交換価値についてよりはむしろ「世の中には金の価値がわからないタイプの人間がいる」ことの方が身にしみるような気がするのは偏見であろうか。
第三のものが象徴価値。
これは「所有者の所属階層を指示する記号的機能をもつ」商品の価値である。
後期資本主義社会では、市場を行き来する商品の90%は使用価値でも交換価値でもなく、象徴価値に基づいて値付けされている。
象徴価値とは平たく言えば「アイデンティティ指示機能」のことである。
どういう商品を持っていると、所有者が「何もの」であるかがわかる。
フェラーリとか、自家用ジェット機とか、外洋クルーザーとかを持っていて、誇示している人間は「金持ちで、趣味が悪い」ということがわかる。
そういう指示機能のことである。
1980年代から以降の経済活動はほとんどがこの「アイデンティティ基礎づけのための消費」に依存するようになった。
「名刺代わり」「表札代わり」に消費行動を行う圧倒的な数の消費者のニーズに依存して、後期資本主義社会は栄えたのである。
環境破壊と資源枯渇と先進国における人口減と金融ゲームの破綻によって、「資本主義市場経済の弔鐘」が耳障りな音を立てて鳴りだしても、消費活動を「アイデンティティ基礎づけ」的なものとして進めようとする諸君の頭のつくりは急には変わらない。
アイデンティティというのは幻想だからである。
消費主体が生理的欲求や物質的必要に基づいて消費している限り、人間の消費活動には限界がある。
どれほど卑しい人間でも、1日5食6食食べ続けることはできないし、服だって一度に一着しか着られない。
人間の身体が消費活動を限界づける。
しかし、消費主体が「自分は何ものか?」という幻想構築のために消費するようになれば、消費活動には原理的に限界がない。
ギルティフリーにしてもサステナブルにしても、それが消費主体のアイデンティティ構築にかかわる限り、「これで終わり」ということはない。
タワシは一家に2つもあれば足りるが、人間が「私はあらゆる罪から免れている」ということを立証するために消費活動を行うならば、購入すべき商品に「これで、おしまい」ということはない。
「あなた、まだそんな環境にやさしくない商品を使っているの!」という隣人からの批判に屈服して次の「さらに環境にやさしい商品」に乗り換えることを「サステナビリティ・コンシャスネス」の高い消費者は永遠に止めることができない。
だが、そうやって「環境にやさしい商品」を大量生産・大量流通させ、「環境にやさしくない商品」を大量廃棄することそれ自体が「環境にやさしくない」行動だということは彼らの意識には前景化しないのである。
だから、消費行動が変わったと言っても、基本的なスキームは変わっていない。
大学院のゼミの後期のテーマは「日本再生」であるので、もちろん、「基本的なスキームは変わっていない」で話が済むはずはない。
経済活動を再生させるにはどうしたらよろしいのか。
それは論理的には、資源の枯渇、人口の抑制、市場の縮小という条件に適応する経済活動へシフトすることである。
別にむずかしいことではない。
人類史の黎明期から数万年はずっと「それ」でやってきたのだから。
それは「商品交換」から「贈与」に経済活動の基本行動を置き換えることである。
「商品経済」から「贈与経済」へ。
これについてはまたいずれ詳細に論じる機会があるであろう。
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