学力テストについて

2009-11-17 mardi

07年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と1964年度の全国テストを社会環境を加えて分析したところ、学力を左右する要因として離婚率・持ち家率・不登校率の3指標の比重が高まっていることが、大阪大などの研究グループの調査でわかった。
いずれも、家庭、地域、学校での人間関係の緊密さに関する指標で、研究チームは「年収などの経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」と指摘。(毎日新聞、11月17日朝刊)

ひさしく「学力格差は経済格差」であると言われてきた。
金持ちの子どもは「教育投資」額が貧乏人の子どもよりも大であるので、学力が高いというのである。
この「要するにすべては金の問題だ」という薄っぺらなリアリズムに過去20年ほど私たちの教育論は振り回されてきた。
それによって、学力のない子どもたちは「自分たちは学力がないのではなく、端的に金がないのだ」というふうに考えるように仕向けられた。
その結果、学力のない子どもは「金の全能性」についての信憑を深め、「学校なんかに行ってる暇」に、「端的に」金を稼ぐ方法しかたを工夫するようになった。
きわめて合理的な推論である。
日本の子どもの学力が低下しているのは「金の全能性」イデオロギーのせいで、「学力を高める動機」よりも「金をもうける動機」の方が選択的に強化されているからである。
誰が考えても、短波放送で株式市況を聴いたり、競馬新聞を熟読したり、パチンコ屋の開店を待つ方が「金を儲ける」という最終目的のためには学校に通って因数分解やサ行変格活用を覚えるよりは即効性がある。
そういうふうに「合理的に」推論する子どもたちの学力は集中的に劣化する。
それはこれまで繰り返し指摘してきたとおりである。
「合理的に思考する子どもたち」は、勉強するに先だって「どうして勉強しなくちゃいけないの?」というラディカルな問いを立てる。
「どうして義務教育を受けなくちゃいけないの?」「数学とか古典とか勉強すると、どういう『いいこと』があるの?」
平たく言えば、「勉強すると金になるの?」と訊いてくるのである(子どもにも多少の遠慮はあるので、そこまでストレートには訊かないが)。
残念ながら、このような問いには答えるわけにはゆかない。
つねづね申し上げているように、学校教育というのは、「そこでなぜ学ばなければならないかの理由を子どもたちは知らないが、大人たちは知っている」という「知の非対称性」に基づいて構造化されているからである。
「いいから黙って勉強しろ」というのが学校教育にかかわる大人たちの基本文である。
自分がなぜ学ばなければならないのか、その理由がうっすらとはわかるが完全にはわからないという「グレーゾーン」に子どもを置くのが学校教育の目的である。
そうすると、どういうわけだか知らないけれど、子どもの学力は向上することが経験的に知られているからである。
「学力」というのは「学ぶ力」のことである。
何を知っているかではない。
知識や情報や技芸のことではない。
「学びたい」という抑えがたい欲望のことである。
「学びたい」という欲望は、自分が何のために何を学んでいるのか「すこしわかりかけているのだが、全部はわからない」ときに亢進する。
だから、学校教育は「そういう状態」に子どもを置くためにもろもろの「仕掛け」を凝らしてきたのである。
何千年か子どもを育ててきた人類学的経験から、「こういうふうにすると、子どもは成熟する確率が高い」ということがわかったので、学校における諸制度を整えたのである。
残念ながら、現在の学校制度は「成熟の装置」としての社会的機能をほとんど失ってしまった。
教育行政も保護者も、もちろん子どもたち自身も、学校にそのような機能を期待してはいない。
今学校は「換金性の高い知識や情報や技能を習得する場」というふうに単純に理解されている。
そして、「換金性の高い知識や情報や技能」よりは「金そのもの」の方がさらに「換金性が高い」(だって金だから)ということに気づいた子どもたちは(誰でも気がつくが)、「勉強よりも金儲け」を優先させるようになり、「別に金なんか欲しくないし・・・」という非活動的なタイプの子どもたちは底なしの無為のうちに沈むことになった。
そんなふうにして、日本の子どもたちの学力は急降下で劣化したわけであるけれど、それは「学校教育の意味を経済合理性で説明したことの帰結」である。
今回の統計によって、「学力格差は経済格差である」というこれまで信じられてきたテーゼの根拠が失われた。
今回の研究によれば、学力格差は「学ぶ意欲」(インセンティヴ)の格差であり、それは親族・地域・学校という場への定着度に相関する。
さまざまな「しがらみ」のネットワークの中に絡めとられているせいで、自己利益の追求ばかりでなく、同時に帰属集団の公共的な福利をも配慮しなければならない子どもたちは学力が高い。
というのは当たり前で、さまざまな集団のステイクホルダーであり、そのつどふるまい方や話し方を適切にシフトしなければならないという条件があれば、子どもは成熟せざるを得ないからである。
そして、「学ぶ力」というのは、まさに「成熟しなければならない」という内圧の同義語なのである。
「学ぶ力」は成熟への意欲と相関する。
成熟への意欲は、子どもが多様な集団において、そのつど適切な役割を演じることの必要性と相関する。
同じ新聞の別の欄は、大阪府教委が全国学力テストの市町村別平均正答率の開示を指示したことを伝えていた。
市町村別の正答率の開示は、要するに「学力による序列化」をめざすものである。
序列化し、格付けし、学力の高い地域には報償を与え、学力の低い地域には罰を与える。
そのようなシンプルで幼児的なシステムを完成させれば、子どもたちはますます幼児化し、学力はますます劣化することになる。
この理路が教育行政の当事者たちには理解できないのである(子どもだから)。
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