論争嫌い

2009-11-16 lundi

『日本辺境論』の販促活動が始まっている。
昨日、梅田の紀伊國屋書店を覗いたら、入り口のところに特設のトレーが作ってあって、『街場の教育論』や『下流志向』や『私家版・ユダヤ文化論』も並べてあった。
文楽劇場での幕間でも、POP をたくさん書かされた。
「読んでね」とか「面白いよ」とかいう、まったく知性の片鱗も感じられない惹句であるが、読んでもらわないと話にならないのであるから、とりあえずは読者のみなさまのご厚意に取りすがるのである。
今のところ寄せられた感想にはどれも好意的で、まずは一安心。
もちろん、これからさき関係各方面から怒濤のような批判が寄せられることは避けがたいのであるが、批判に反批判を加えて、泥沼の論戦に・・・ということは私の場合にはありえない。
それは「論争」というものが生産的になることはない、というのが「文科系」の学問の宿命だからであるからである。
どこまでもやってゆくと、最終的に論争は「どちらが頭がいいか」というまことににべもないハードウェアのスペック比較になる。
どのような高尚なテーマで始まった論争も、かならず最後は生得的な資質の差を比べるところまで品下る。
そういうのは decent ではない。
「言論の自由」というのは論争をしないで済ませるための工夫であると私は思っている。
論争に勝たないと次の発言機会が与えられないというなら必死に論争に励む動機も理解できるが、勝っても負けてもスルーしても、発言機会が保証されているのがわが言霊さきはふ国の手柄である。
論争というのは、どこかで相手に向かって「黙れ」という言葉を口にすることになる。
それは民主主義社会においては禁句だろうと私は思う。
私たちは誰もが「言いたいこと」を公開の場で示し、自分の意見に同意してくれる人の数を増やす権利がある。
だが、他人が私見を発表することを禁じる権利はない。
自分の意見の信頼性を高めるために語ることと、他人の意見の信頼性を貶めるために語ることは、似ているようだけれど、違う。
前者は「読み手」の知性を信頼しており、十分な論拠を示し、適切な推論をすれば「たいていの人は私と同じ結論に到る」と思っている。
後者は「読み手」の知性を信頼しておらず、放っておくとたいていの人は「自分の意見とは違う、誤った結論」に到ると思っている。
だから大声で、金切り声をあげて、他の人が話している声が聞こえないように、言論の場を占拠しようとする。
その違いは外形的なものにはとどまらない。
論争を「愚者を教化する機会」だと思っている人間は、スターリン主義のソ連や金正日の北朝鮮に生まれていれば、強制収容所や政治犯の粛清に喜んで同意するタイプの人間である。
私は「そういう人間」を直感的に見分けることが出来る。
強制収容所の「囚人になる人間」と「看守になる人間」は、そのような制度が存在しない社会においてもはっきりと識別できる。
論争を好むのは「看守」たちである。
だから、私は彼らとはかかわりあいを持たないことにしているのである。
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