AO 入試が始まった

2009-09-28 lundi

AO入試の第一次選考。
これから3月半ばの後期試験の判定教授会まで、半年にわたる長い入試シーズンが始まる。
入試部長として、この入試業務の全体を統括しなければならない。
もちろん実務は入学センターの職員がやってくれるので、決定したことについて(とくに失敗したことについて)責任を取るのが私の仕事である。
立場上責任を取ったり謝ったりすることはさっぱり気にならない。
世の中には、「立場上」であれ、責任をとることを好まぬ人もおられるけれど、「立場上」というのは要するに「命までは取らない」ということである。
そういう機会に「取れるものは取っておく」というのはずいぶんと大事なことである。
予定納税のようなものである。
そのうち「どかん」と来るかもしれないものを小出しに払っておくと後で助かる。
私が「わりとどうでもいい局面」ですぐに謝るのは、「絶対譲れない局面」で絶対謝らないための「貯金」をしているのである。
8月のオープンキャンパスの来場者が前年比110%と堅調であったので、今年の志願者確保について私の見通しは楽観的である。
とはいえ、大手私学が軒並み新学部新学科を創設し、高校の系列化(“囲い込み”)を進めている中で受験生の動向についてはやはり見通し不良と言わねばならない。
だが、巨大私学のスケールメリットは裏返せば「スケール・デメリット」でもある。
それは「数を集めること」がどうしても施策上優先するということである。
経営規模がある線を越えると、「こういう教育をしたいので、学生を集める」ということから「学生を集めたいので、こういう教育をする」という方向に発想そのものが変わる。
「教育を継続するためには収支が黒字でなければならない」という考え方が放棄され、「収支が黒字になるような教育をしなければならない」という考え方が「ふつう」になる。
それは大学が「教育」の場ではなく、「ビジネス」の場に変わったということである。
学校が教育サービスの「売り手」になり、学生たちがその「買い手」になるということである。
そして、需給関係では、いまは「供給過剰」であるから、市場のルールに基づき、商品の選択権は志願者たちの側にある。
当然、大学は入りやすくなる。
受験生にとっては喜ばしい状況のように見える。
だが、それは短見というものである。
それは「商品」の売り買いにおいて、買い手の属人的なファクターは誰も気にしないからである。
商品を買ってくれれば「誰でもいい」というのが市場のこれもルールである。
志願者は「買い手」の立場で学校にかかわるときに、消費者として商品を選択する権利の代償に、「買ってくれるなら誰でもよい」という買い手における「属人性の消去」という重い事実を引き受けなければならない。
金さえ出せば、幼児でも、大人と同一の商品を買い、同一のサービスを享受することができる。
属人性を一切顧慮されないということは、しばしば社会的立場の弱い人間にある種の全能感をもたらす。
けれども、どんな場合でも先取りされた全能感はそれと等量の無能感によっていずれトレードオフされるのである。
「商品を買ってくれさえすれば買い手は誰でもいい」ということは言い換えれば、学校がその入学者に向かって、「ここにいるのは君でなくてもよかったのだ」と宣言しているということである。
そのメッセージは執拗低音のようにつきまとって、学生たちのアイデンティティの基盤を腐食させる。
学びの場を活性化するのは「私はここにいるべき人間である」という「選び」の意識である。
「私が今、ここで、この人から、このことを学ぶことは生まれたときから決定されていたのである」という妄想に近い断定によって学びは劇的に進捗する。
「私がどうしてここにいるのか」の理由を実定的に列挙できる場合には、そのような断定はもとより不要のものである。
「私がこの学校にいる理由」としてもっとも説得力があるのは、「ここしか受からなかったから」と「ここなら受かりそうだったから」である。
これに対して「そういう理由で学校を選んではいけない」と叱る親や教師はいない。
「まあ、それじゃ仕方がないよな」と頷く。
しかし、ここで「まあ、それじゃ仕方がないよな」と言わせたら「終わり」なのである。
どうしてここにいるのか、その理由が本人にもよく理解できるし、まわりの人間も理解しているような場にいる人間は、「自分が他ならぬその場にいる理由」を自力で構築する必要がなくなるからである。
非合理的な話だが、「どうしてこの学校を選んだのか、その理由がうまく言えない」ということが学びにおいてはしばしば決定的に重要なのである。
それは武道を教えているとよくわかる。
合気道に入門してくるときに、入門の理由を妙になめらかに説明する人間がいる。
あれこれの武道や身体技法を遍歴し、さまざまな武道書などを読み漁り、「やはり合気道しかないと思いまして」と言って訳知り顔で来た入門者は、経験的に言って、まず長続きしない。
入門動機をぺらぺらと言い立てたあげくに一回来ただけで止めてしまった人間を何度も見た。
それよりは、合気道って何だか知らないけれど、「友だちについてきて、つい勢いで」というような「あくび指南」的動機で入門した人の方がたいてい長続きする。
それは「どうして自分がここにいて、こんなことをしているのか、よくわからない」からである。
よくわからないから、なんとかして理由づけをしようと思う。
これは「学び」のすべてについて起きていることである。
人間はまったく無動機的に何かをするということはない。
だから、「あくび指南に通おうと思うんだけど、お前も来ない?」と誘われたときに、なんとなく「うん、いいよ」と頷いたことには、実は本人もわかっていない何らかの意味があったはずなのである。
「やだよ」という即答だって十分ありえたはずだし、その拒絶には十分な基礎づけがあったのである(なにしろ「あくび指南」なんだから)。
にもかかわらず来てしまった以上、そこには明示されていない理由、本人も「まだ知らない理由」があったのである。
どれほど自分の内側を覗き込んでも「学ぶ」ことへのつよい内発的な理由を見出すことはむずかしいときには、とりあえず「学んでみる」というのが古来の常識である。
その仕事が何を意味するのかわからないけれど、とりあえず「ご縁」があった以上はまじめにやるというのは、職業倫理の基本である。
もし、自分にその有用性と意味がわかっていることしかやらないということをルールにしていたら、ほとんどの仕事はそもそも始めることさえできないであろう。
シャーロック・ホームズは恒産のある高等遊民であったので、その探偵活動は報酬を求めてのものではなかった。
だから、仕事を好きに選んだのかというと、そうではない。
ホームズは仕事を選ばなかった。
シャーロック・ホームズの冒険譚のうち、「依頼人が来たが、探偵を引き受けなかったので何も起こらなかった」という話はひとつもない(当たり前だけど)。
「手間の割には報酬が少ない」とか「私のような名探偵が出張るまでもないゴミ事件である」とか「なんか、身体がだるいし」というような理由でホームズが依頼人を追い返した事例を私は知らない。
どんな事件でも、どんな依頼人でも、ホームズは引き受けた。
彼がその推理を始めるきっかけは、「その事件が何を意味するのか、よくわからない」からである。
「よくわからない」のだけれど、「なんだかわかりそうな気がする」のである。
問題がある。まだ解いていないのだけれど、いずれ解けそうな気がする。
その「感じ」にホームズは抵抗できなかった。
だから、ホームズは『まだらの紐』や『バスカーヴィル家の犬』のようなおおがかりな事件も、『赤毛クラブ』や『白銀号事件』のようなしょぼい事件もひとしなみに扱った。
「ご縁」があったからである。
そして、どの事件においても、そこで行われることは、「よく意味のわからない断片」と「説明のつかない出来事」をとりまとめ、説明できる「文脈」を探り当てるという点については、まったく同形的なのである。
これは私たちが日々行っているすべての知的活動について妥当する。
このような知だけが真に実践的に有用な知なのである。
スペクタキュラーな事件においてのみホームズの推理が例外的に活発に機能し、どんくさい事件では脳の一部しか使われなかったというようなことはない。
どれほどしょぼい事件でも、「説明のつかないこと」を説明するために稼働する知的装置は同じである。
だから、どんな事件を推理しても、そのつどホームズの推理能力は不可逆的に向上し続けるのである。
閑話休題。
私が申し上げたかったのは、あらかじめその有用性と意味が一覧的に開示されない限り、知性を活動させないというような横着なことを言っている人間は生涯知性と無縁である他ないということである。
「おれは意味のあることしかやらない」「自己利益が増大することが確実であることしかやらない」というようなことをうそぶいている人間はついに無為のうちに人生を終えることになるであろう。
学びを起動させるもっとも効果的な動機は、「なんだかわからないけれど、ここに来てしまった」、「ここに呼ばれたような気がした」という感じである。
固有名において学生たちに呼びかけること。その余人を以ては代え難い固有性において呼びかけること。
それは「商品を売る」という行為と隔たること遠い。

土曜日はお稽古をお休みにして、長久手にある愛知県立大学に講演に行く。
たいへん気配りの行き届いたおもてなしを受ける。
ずいぶん前から図書館に私の著書のコーナーを設けて貸し出しするのみならず、発達心理学の加藤義信先生が私の著作について懇篤な「解説」を書いて(なんと「内田樹讃」という驚倒しそうなタイトルで)配布してくださったのである。
加藤先生の内田論は私がこれまで読んだ書評中で「これほどほめてもらったことがない」ほどに好意的なもので、このようなものばかり読まされていたら、私のような弱い人間はたちまち人間としてダメになってしまうことが必定と思われるほどに甘美なものであった(もちろん座右に置いて、日々繙読しているのであるが)。
聴衆は 900 人ほど。学生さんたちもまだ夏休み中なのに多数お集まりくださった。
ありがたいことである。
お題はいつものように教育の話。上で書いたようなことをお話しする(だって上の部分は行きの新幹線の中で書いたのである)。
第二部が加藤先生との対談と質疑応答。
それにしても自分の書いた本のことについてひとと話をするというのは奇妙な気分のものである。
関川夏央さんがうちの大学の文学の授業で、「自分が書いた本(書いてないんだけど、将来作家になって書いたと仮定して)の書評を他人である批評家になって書いてみる」という SF 的宿題を課したことがあったそうである(伝聞なので、細部は違っていたかもしれない)。
私だったら嬉嬉として 20 枚くらい書いちゃいそうであるけれど、自分の著作についてひとと話すというのは「そういう感じ」である。
実は存在しない空想上の書物について、あたかもそのようなものが存在するかのように演技している。
そんな、ふしぎな非現実感がある。
佐々木学長、宮崎学術情報センター長はじめ、愛知県立大学のみなさん、ご歓待に感謝申し上げます。
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