ウェブと書籍とコピーライト

2009-09-14 lundi

ひさしぶりに(ほんとうにひさしぶりに)日曜の午後にぶらりと能を見に行く。
長田の上田能楽堂で神戸観世会。
能は『東方朔』と『花筐』。仕舞で下川先生の『山姥』と家元の『井筒』を見ているうちになんだか、急に稽古がしたくなる。

家に戻って、『考える人』のアンケートに回答。
「インターネットと出版と著作権」について。
いつものようなことを書いて送る。
質問のうちに、これまで考えたことのなかったことがあった。
ひとつは「読む媒体」としてネットは使えるかという問い。
私の答えは以下の如くである。

「個人的な趣味で言えば、小説や哲学書を電車の中でモバイルで読む気にはなりません。どうしてなのかはわかりません。何となくです。文庫本の形をしていて、縦書きで読める読書専用モバイルができたら、とりあえず買うとは思いますけれど。」

新聞は将来消えるのではないかという見通しについて。

「ウェブと新聞の一番の違いは、新聞は『読む気がないのに目に入る』情報があるけれど、ネット上の情報検索では『読む気のある情報』しか目に入らないことだと思います。例えば、『くだらない広告』とか、見出しだけ見てスキップする『くだらない記事』は新聞でしかその存在を知ることができません。新聞は『今、世間ではこのようにくだらない情報に対するニーズがあるのか・・・』ということを教えてくれる重要な情報源です。」

誰でもブログに書くことができるようになったので、物書きの質が変わったかどうかについて。

「誰でも書き手として全世界に個人的メッセージを発信できることになり、参入条件が劇的に緩和されたわけですけれど、それによって従来の出版文化からは排除されていたタイプの書き手や文体が登場してきたということはあまりなかったと思います。真にイノベーティヴな書き手は『参入障壁が低くなったから書き始める』というようなことはふつうないからです。ほんとうに書きたい人は『書くな』と言われても書きます。」

プロの書き手とアマチュアの書き手の壁はもはや「単行本化」されるかどうかしかなくなった観があるけれど、書物という媒体そのものもいずれ消滅するのか。

「『プロの書き手』と『アマチュアの書き手』の違いというのは客観的基準があるわけではありません。本人が『俺はプロだ』と言えば、それでプロです。
ぼくは自分のことを『アマチュアの書き手』だと思っていますが、それはべつに単行本の有無とは関係ありません。『著作物で生計を立てている』ということでもありません。
だって、あらゆる出版社から『あなたの本はもう出しません』と言われたらそのときは『あ、そうですか。じゃ、自分で出すからいいです』って言うはずですから。
ぼくは言いたいことがあるので書いているわけで、『止めろ』と言われても書きたいことは書く。『お金をくれる』から書く、くれないなら書かないというような基準で書いているわけではありません。
『金にならないなら、書かない』ときっぱり断言できるのが真の『プロの書き手』だと思います。
その意味で言えば、今の日本のメディアに物を書いている人間の中に『プロの書き手』と言える人はそれほど多くはいないんじゃないですか。」

などなど。
私は著作権にかかわる議論については、一貫して懐疑的である。
テクストを「商品」だと考えていれば、著作権は保護されねばならないであろう。
けれども、テクストは本来的には「商品」ではない。
それが商品性をまとうのは、「商品として扱った方がよいものがたくさんの人に読まれる可能性が高い」という判断が成り立つ限りにおいてである。
商品扱いすれば、質の良否についてかなりきびしい査定が行われる。良質の商品であるとみなされれば継続的かつ広範に供給される。良質な商品を提供する書き手には「他の仕事を止めて物書きに専念しても大丈夫」なだけの経済的支援ができる。
そのような条件がクリアーされるなら、テクストは商品として扱うことが許される。
逆に言えば、商品扱いしないでも、これらの条件が満たされるなら、あえて市場に投じる必要はない。
現在の著作権についての議論の問題点は、書き手の生計をどう支えるか、商品の売り上げをどう確保するかというテクストの「経済」ばかりが論じられ、「ひとりでも多くの読者に私の書いたものを読んでもらいたい」という書き手の本来的欲求が軽視(ほとんど無視)されていることにある。
何度も書いているように、「本を読む」ということと「本を買う」ということは別次元の出来事である。
かつてアメリカで「ジャガイモの皮むき器」を商品化したメーカーがあった。
たいへん使い勝手がよく、堅牢な商品であったので、よく売れた。
よく売れたが、はやり廃りがあるでなし、すぐに壊れるというものでもないし、一通りゆきわたったら、あまり売れなくなった。
一計を案じた社員がいて、この皮むき器のカラーリングを「茶色」にした。
そしたら、売り上げが一気に向上した。
ジャガイモの皮といっしょに棄てられてしまったからである。
こういうのはどこかが「間違っている」と私は思う。
自社製品がまだ使えるのにどんどん廃棄され、それで売り上げが伸びて、作り手はうれしいのだろうか。
あまりうれしくないだろうと思う。
著作権論者が言っていることは、この「ジャガイモ皮むき器」のセールスマンに似ている。
本の商品性を強調すれば、いつか「買わないけど、読む」という読者よりも「読まないけれど、買う」という購入者の方を優先するようになる。
本が商品なら、「お前の出した本は全部買ってやる。そのまま読まずに燃やしちゃうけど」という顧客にも「まいどおおきに」と頭を下げなければならないのがことの筋目である。
私は本は商品ではないと思っている。
私にとって用事があるのは私の書いたものを読む人であって、本は購入するが中身は読まないという人に、私の方からは特段の用事はない。
こう考えるのは間違っているのだろうか。
でも、私に同意してくれる「プロの書き手」は驚くほど少ない。
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