教育のもたらす利益について

2009-09-10 jeudi

経済協力開発機構(OECD)は8日、加盟国の06年国内総生産(GDP)に占める教育費の公財政支出割合について調査結果を公表、比較が可能な28カ国で日本は3・3%と下から2番目だった。
平均は4・9%。1位はアイスランドの7・2%、デンマーク、スウェーデンが続き、北欧が上位を占めた。日本は最下位だった05年調査の3・4%より0・1ポイント減少。
日本は小中高までの初等中等教育は2・6%で下から3番目、大学などの高等教育は0・5%と各国平均1%の半分で最下位。
全教育費に占める私費負担の割合は33・3%と韓国に次いで2番目に高く、平均の2倍以上だ。
日本は、高等教育への財政支出対GDP比率が先進国最低の国である。
文科省はこれを5%にと要望したが、財務省に一蹴された。
教育は私事であるから、公的支援には及ばないというふうに考えておられるのであろう。
教育は自己責任で行え、と。
行政を頼るな、と。
別にこれは財務省の創見ではない。
これは公教育という制度が発足した当初から、ずっと言われ続けてきたことである。
すべての子どもたちにできるかぎりの教育機会を提供するのは国家の義務である、という考え方を提示したのは、18世紀のフランスの啓蒙思想家たち、なかんずくコンドルセである。
理論ではフランスが先行したが、制度的に定着したのはアメリカが早かった。
しかし、そのときにアメリカの市民たちの中に、公教育制度につよく反対したものがいた。
ブルジョワたちである。
彼らはこういうロジックを立てた。

公教育を受けるのは貧乏人の子弟である(私らの子どもは高い授業料をとる私立学校に通っている)。
貧乏人が貧乏であるのは、能力がないか努力が足りなかったか、いずれにせよ自己責任である。
なぜ、自己責任で貧乏になった人間の子どもたちの面倒を私らが納めた税金でせにゃならんの。

ブルジョワたちはそう言って公教育制度の導入に反対した。
勉強したい人間は自分の金で勉強しろ。金がないならあきらめろ、と。
これに対して公教育制度の導入を求めた思想家たちは苦肉の説得を試みた。

いや、それは短見というものである。
ちょっとお考えいただきたい。
みなさんがここでちょっと我慢して税金で公教育を支援してくだされば、文字も読めるし、四則計算もできるし、基礎的な社会的訓練もできている若い労働者がそのあとどんどん供給されるようになります。
高いスキルをもった若年労働者がこの先のみなさんのビジネスにどれくらいの利益をもたらすと思いますか。
ここで1ドル損して、あとで10ドルにして取り返す。それがイタチボリのアキンドつうもんでしょうが。

まあ、そういうふうなことを言ってブルジョワたちを説得したわけである。
さきゆき自己利益を増大させるという保証があるなら、公教育に税金を投じるにやぶさかではない。そういう経済合理性に基づいて、アメリカのブルジョワたちは公教育の導入を受け容れたのである。
その図式をわが国に適用すれば、どうして文科省が支援の増額を求め、財務省が反対するのか、そのロジックがわかる。
文科省は古典的な啓蒙理論の立場から「教育は公的な仕事である」と考えている(だから、あれこれわれわれのやっていることに口を出しもするのである)。
財務省は財界の言い分を代弁して、「教育は私事であり、教育目的は自己利益の増大であるなら、『受益者負担』の原則を貫くべきで、公的資金を投じるべきではない」と考えている。
この言い分もそれなりに筋が通っている。
教育にこれまでずいぶん国費を投じてきたけれど、その結果が「このざま」じゃないかと言われると、われわれはつい絶句する。
学力も先進国最低レベル、校外学習時間も最低、高等教育まで受けたが、英語が読めない、四則計算ができない、漢字が書けないという「学士」が現にたくさんいる。

あれだけ税金使って、これかよ。
そんなものにこれ以上金は出せん。
勉強したければ自己責任でやりなさい。
自分の金で学校に通うようになれば、少しはまじめに勉強するようになるであろう。

そう言われると、それなりに筋が通っている。
そもそもの最初に「公教育にいま金を出しておくと、あとでがばっと回収できますよ」というロジックで納税者を納得したのであるから、「『がばっ』とならないじゃないか」と言われるとプラグマティックな公教育論者は立場を失う。
もちろん、反論は可能である。
「出し方が足りないから、『こういうこと』になったのである」という反論である。
高等教育は予算逓減のせいで、「勝ち組・負け組」の二極化が急速に進行し、危険水域に向かっている。
これは事実である。
いまここで教育に投資しなければ、わが国の明日はない。
というのも、かなりほんとうである。
財務省の反論は「おい、それは破産する前の企業の言い分だろ」というものである。
「おたくが融資してくれないから潰れかけている。潰したくなかったら、追加融資してくれ」という言い分を許してどれほどの不良債権を抱え込んだか、おいらは忘れていないぜ、と財務官僚は悪夢のバブル崩壊を思い出して目の前が怒りで暗くなっている。
どちらの言い分も私には理解できる。
しかし、これはこの「教育はペイする」というロジックそのものが内包していた背理であると私は考えている。
教育をビジネスの語法で語ってはならない、というのは私の年来の主張である。
公教育導入のときにも、ほんとうは「教育を国家的な事業として行えば、あとで私人の自己利益が増大する」という利益誘導型ロジックを利用すべきではなかったのだ。
このロジックを使う限り、「オレは公教育制度から何の利益も受けていない」と言いだした人間がいて、「オレ的には公教育なんか要らないね」と言いだしたときに、これを抑止することができなくなるからである。
教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。
そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。
私人を公民に成熟させるために、自己利益の追求と同じくらいの熱意をもって公共の福利を配慮する人間をつくりだすために、マルクスの言葉を使って言えば、人々を「類的存在」たらしめるために作られた制度なのである。
私たちの国の教育支出の対GDP比がきわめて低位であるのは、これを非とする人も是とする人もどちらも教育の意義を「利益」という語で語ろうとすることに由来する。
教育は利益をもたらさない。
教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。
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