ふた仕事終わる

2009-09-08 mardi

歌仙会が終わる。
内輪の会だけれど、やはり緊張する。
仕舞『野守』と素謡『玄象』のシテ。
地謡は『遊行柳』、『船弁慶』、『駒之段』、『安宅』、『井筒』などなど。最後の祝言の『高砂』まで終日ほとんど謡い続け。
終わってほっとする。
寝ころんでワインを飲みながらマンガを読む。微妙に夏休み気分となる。

朝起きて、『日本辺境論』を書き上げて、新潮社に送稿する。
去年の秋くらいから少しずつ書きためていたものである。
新書だから、ほんとうは「一気書き」して、読む方も「一気読み」というのがふつうの作り方なのだろう。
新書の場合、ものによっては一日対談して、それをそのまま本にする、というようなインスタントな作り方をすることもある(その方が標準的なのかもしれない)。
あまり時間をかけたせいで、話はあちらへ飛び、こちらへ戻り、文体も悲憤慷慨したり、ひねくれたり、眦を決したり、悪ふざけしたり、その日の気分で変わるので、まるで統一性がない。
とにかくこれが今年最初の単著である。出るのは11月くらい。

一つ仕事が終わったので、次はワルモノ先生との往復書簡『若者よマルクスを読め』にとりかかる。
今回は『経哲草稿』。
7 月はじめにいただいた書簡の返信をまだしていなかったのである。
これは 9 月中にご返事しないといけない。

それが片づいたら、ようやく『街場の家族論』にとりかかる。
これをなんとか年内に片付ける(希望的観測)。
それくらいで今年は終わってしまいそうである。
どうしてこんなに仕事がベタ遅れになったかというと・・・もちろん、ほかの仕事が異常に多かったためである。
書きもの仕事は家でさくさくできるから、それほど負担にはならないのであるが、講演がきつい。
日時が指定してあると「あ、その日はあいにくダメなんです」という言い訳が通るのであるが、「先生のご都合のいい日で」と言われると「一年365日、都合のいい日など一日もありません」とは答えられない。
結局、空いている日(それは家にこもって本を書くための日なのであるが)が次々とつぶされてゆくことになる。
10月、11月、12月も週末はほとんど講演。ウィークデーに入っている場合もある。東京日帰りとか福岡日帰りとか福井日帰りとか、タフな日程が続く。
一日おきに週3回講演をすることもある。
そんなに引き受けなきゃいいじゃないかとおっしゃるであろう。
私もそう思う。ほんとに、心から、そう思う。

一年近くかかった本をようやく仕上げたので、気分がだいぶ楽になったので、杖道の稽古に大学まででかける。
暑い中、4人部員たちが来ている。
体育館で形稽古。みんなずいぶん上達した。
全剣連に加盟して審査を受ければ、それなりの段位が得られるのだろうが、加盟すると「試合」というものに出場しなければならない。それが厭なのである。
私は競争的環境に置けば人間の心身の能力が高まるということをあまり信じていない。
もちろん一時的には高まる。劇薬的な効果がある。
でなければ、これほど「試合」が繁昌するはずはない。
けれどもそれはあくまで「劇薬」である。
生きる知恵と力を高めるということを目的とするなら、「劇薬」を投与して、一時的にパフォーマンスを向上させるということは避けた方がいい。
たいていの場合、劇的効果をもたらすあらゆる薬物がそうであるように、その「支払い」のための長期的な苦痛は、効果がもたらした一時的な快楽上回るのである。
私に同意してくれる人はきわめて少数であろうが。
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