指折り待ってた夏休み

2009-08-01 samedi

木曜日、生きて夏休みを迎えることができた。
夏休みといっても、毎日仕事で大学には出勤するのである。

火曜日は5限まで授業があり、授業後、東京から来てくれた矢内さんを飛行機の時間ぎりぎりまで並木屋にてご接待。
鱧を食す。美味。

水曜日はオフ。でも、取材のため出勤。朝日ファミリーという媒体で「学力のつけ方」について。
学力とは何かという根本のところで、私は文科省ともメディアに出てくる教育評論家の多くとも考え方を異にする。
学力とは読んで字の如く「学ぶ力」である。
「学びに開かれてあること」のことであり、「学んで得た知識や技能や資格などなど」のことではない。それらはたかだか学力の副産物にすぎない。
「学ぶ力」というのは次のようなことを言う。

(1)自分には知識や技術や見識や情報や、なんであれ、「大人」として遇されるためのものが欠如しているという感覚を有すること
(2)自分にそれを与えてくれる「メンター」を探し求めるセンサーが起動していること
(3)「メンター」を「教える気」にさせるための「パスワード」を知っていること

以上である。
無知の自覚、メンター、パスワード。
これが「学ぶ力」を構成するすべてである。
これさえあれば、人はどこでも、いつでも、学び始めることができる。
この三つの条件を言葉で言うとこうなる。
「学びたいんです。先生、教えてください。お願いします」
これだけ。
これが「学力」という能力のすべてである。
この言葉をさらりと口にすることのできる人間はほとんどあらゆる機会において学ぶべきことを学ぶことができる。
簡単なことのようだが、けっこう(すごく)むずかしい。
第一に、「自分が知らないこと」が何かを言わなければならない。
自分が何を知っているかを言うのは簡単だが、自分が何を知らないのかを言葉にするのはむずかしい。
「これから学ぶこと」は原理的にそれが何であるかを私が言えないことである(すらすら言えるなら、それは「これから学ぶこと」という定義に悖る)。
それを言わなければならない。
この瞬間に学びのもっとも本質的な部分は起動する。
「自分がそれを正確に指称する語彙をもたないことについて語る」という困難な作業が人間の知性にブレークスルーをもたらすからである。
「ブレークスルーをしなければ太刀打ちできないようなタイプの負荷」を引き受けることなしにブレークスルーは始まらない。
第二の「メンター」については、これまで何度も書いた。
メンターというのは逆説的な存在である。
私たちは自分が向かっている目的地がどこであるかを知らない(だから学ぶことを求めているのである)。
にもかかわらず誰が私をそこに導いてくれるかを、旅を始める前の段階で言い当てなければならないのである。
「この人が私の師である」という決断は、さまざまな師の候補者たちを並べて、その能力識見を比較考量して、「この人がよかろう」と選ぶというものではない。
師の能力識見が比較考量できるというなら、それはこれから学ぶことが何であるかを学び始める前にすでに熟知しているということであり、それは「学ぶ」という定義に悖る。
つまり、私たちは師の適格性についていかなる外的な判定基準ももたないままに、自分を目的地に連れて行ってくれる師を言い当てなければならないのである。
「誰についていけばいいのか」
それを教えてくれるいかなる手がかりも与えられないままに決定を下さなければならない。
このとき、私たちの心身の感度は限界を超えて高まる。
それがすでに「学び」なのである。
学びというのは「自分の限界を超える」という自己超克の緊張そのものを指すのであるから、メンターを探すというのは、その探求の行程そのものがすでに学びなのである。
第三、パスワード。
これは人をして「教えてもよい」という気分にさせるためには、なにをすればいいのかを思量することである。
ただし、メンターというのはその人の思考や感情や、総じて内的メカニズムが「よくわからない」人でなければならない。
何を考えているか外からまるわかりで、どこのボタンをどう押せばどう反応するかわかっているので、簡単に操作できるような人のことは誰も「師」とは呼ばない。
どうすればどう反応するかわからない人に「教える気」にさせるにはどうすればいいのか。
これは別にそれほどむずかしくない。
上に書いたとおり、「お願いします」と言うだけである。
未知の土地を旅し、未知の習俗をもつ人々の間で、なんとか日常の用を弁じて生き延びるためには、その土地の人々からの支援を得なければならない。けれども、私はその土地の言葉を知らないとするとき、私たちはどうするか。
とりあえず自分の知る限りの「礼儀正しさ」、自分に思いつく限りの「敬意」の表現を試みるはずである。
それがこの土地でも通用するかどうかはわからない。
でも、自分がそれしか知らないなら、自分の知る「敬意の表現」を試みるはずである。
「この土地ではいきなり横面をはり倒すのが敬意の表現かも知れないから、やってみよう」というようなことは考えない。
幕末の日本人は欧米の人が握手の手を差し出しても、お辞儀を繰り返した。
相当数の日本人は手を握り返すのがあちらの礼儀なんじゃないかなと推理できたはずである。
でも、それを「実験」するのは慎重に避けた。
それよりは自分たちにとって確実に敬意の表現であるところのみぶりを繰り返した。
なぜなら、長い人類の歴史の中で、さまざまな異族との遭遇の経験を通して、私たちは「敬意の表現はローカルなものであっても相手に伝わる」ということを知っているからである。
ディセンシーというのはマインドのレベルの出来事である。
それはどのように言語習俗が違っても、必ず相手に伝わる。
学びを起動させるパスワードは「パスワードを知りません。でも、パスワードを機能させたいんです」である。
学力はこの三つの条件から構成されている。
現代日本人の学力が急速な劣化を遂げていることは、繰り返し申し上げているように教育プログラムの不備でも、教育力の欠如でも、日教組のサボタージュのせいでもない。
学力の劣化とは「学ぶ力」の劣化のことである。
英語ができないとか漢字が書けないとか割り算ができないとか、そういうレベルのことではない。
そのさらに根本にあるマインドの問題なのである。

取材のあと、非常勤講師懇親会。
総文の現代国際文化コースの非常勤講師のみなさんと、キャリアデザインプログラムの非常勤講師のみなさんをお招きして、合同で懇親会。
合同でやる教学上の必然性はないのであるが、コーディネイターと、ご出講いただいている先生がこの二つで「かぶっている」ケースが多いので、二度やるのも大変ということで、まとめて一回で済ませているのである。
お迎えする専任側はワルモノ先生、西田先生、言子先生、ナバちゃん、三杉先生、そして私(渡部先生は風邪で欠席。おだいじに)
ゲストは甲野善紀先生がはじめてのご出席。
あとはいつものヤマモト画伯、江さん、ジローくんの「甲南麻雀連盟」会員たち。高橋佳三さん、渡邊仁さん、ともちゃん、ウッキー、そして初登場の増田くん・・・と知り合いばかりであるので、なんだか大学の懇親会というより、仲間と集まって暑気払いをしているような感じである。
講師のみなさんに自己紹介をしてもらったのだが、ひとりずつ話が長い上に芸が面白すぎて、全員紹介するのに1時間以上かかってしまった。
みなさん、どうも暑いところをありがとうございました。また後期からどうぞよろしくお願いいたします。

木曜は新大阪で歯科診療。
根本治療をしているので、今から1年半くらい歯科通いである。
家に戻ってからひさしぶりに部屋のお掃除とアイロンかけ。
机まわりのカオスを整理し、床に散乱したゲラの束を片付ける。
それから『玄象』の謡の稽古。
ひさしぶりに映画を見る。
クローネンバーグの『イースタン・プロミス』を再見。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』、『アパルーサ』、『アラトリステ』とヴィゴ・モーテンセンの映画をこれで短期間に4本続けてみた。
この人はよほど語学の才能に富んでいるらしく、『イースタン』ではロシア語で、『アラトリステ』ではスペイン語で芝居をしている。

金曜日、大学でプチ会議。そのあとオフィスに籠ってたまりにたまった書類仕事。片付け終わると、日はすでに西に没していた。
家に戻って、橋本治さんの『明日は昨日の風が吹く』の解説(20枚も書いてしまった)と、三砂ちづる先生の本の推薦文を送稿。

土曜日曜はオープンキャンパス。
当然ながら、入試部長はフル・アテンダンスを義務づけられている。
月曜からは「死のロード」が始まる。
--------