忙しい週末と批評家の責任について

2009-06-30 mardi

土曜日、合気道稽古のあと、北野のホテル・トアロードのニュー香港にて、甲南合気会・神戸女学院大学合気道部・杖道会主宰の結婚祝いのパーティ。
みなさんにおみやげのアンリ・シャルパンティエのお菓子を買うことにしたので、人数を訊くと、全部で79名。
武道関係者のみならず大学院聴講生のマダムたちもお見えになっていた。
永山くんがシャンペンの瓶のふたをナイフで切り飛ばす大技のソムリエ芸を繰り出して開会。
司会はいつもの谷口・谷尾コンビ。
全部で出し物が12個あるという(2時間の宴会なのに)。
披露宴ですべての出し物を禁じたので、その腹いせというか欲求不満が嵩じたのか、歌に、踊りに、芝居に、演奏にとまことに盛りだくさん。
ひさしぶりにヤベ・クー・おいちゃんトリオの「あてがきパロディ・ミュージカル」を見る。
今回のパロディネタは『天空の城ラピュタ』で、「あてがき」されたのは会の「夫婦」たち。
ヤベのムスカ大佐がそっくり。アニメの真似までできるとは、まことに端倪すべからざる才能である。
写真は私たちのものがないので、思いつき的に「会員たちの逸品」を放映する。
ケンサクさんの高校時代の「アイドル写真」や、オオツカさん14歳の「ツッパリ写真」に歓声が上がる。
企画してくださったタカトリくん、トーザワくん、清恵さんご夫妻、司会の谷口さん、谷尾さん、『冬ソナ』を演奏してくださったタカモトさん、タナカさん、みなさん、ほんとうにどうもありがとう。

日曜日はひさしぶりの例会。
13名集まって3卓を囲む。
今季も不調の総長は、かろうじて5戦1勝。
養成リーグから上がってきたタムラくんが必死に打っているが、やはりボロ負け(涙)。
オーサコくんが後ろで偉そうに指導している。このあいだまで自身も養成リーグにいたのに、J1 でもよく勝つので、これもよろしくない。
若い諸君にはもっと「愛想よく負ける」という芸に熟達してほしいものである。

月曜日。部長会がないので、昼過ぎまで家でのんびり仕事。
日経から電話取材。『1Q84』について。
村上春樹的神話構造と「料理とお掃除」の関連についてお話しする。
夕刊の文芸時評に川村湊が『1Q84』を評している。
川村の評価は否定的である。その一部を採録する。

「『1Q84』という小説自体が、虚構の『現実空間』(変な言い方だが)を作り出そうとしている作品なのだが、この『現実』の世界と、ちょっとだけずれた世界を構築しようとしていることに、興味を引かれる。私たちのこの世界は、階段を一段だけ踏み間違えてしまったおかげで、奇妙な、リアリティーのない世界に足を踏み入れてしまったのではないか。それは、たぶんオウム真理教のサリン事件と、阪神大震災のあった、あの時点から、あるいはもっとそれ以前から(1984年から?)
しかし、私たちが立ち戻るべき “正しい世界” とか “正常な世界” なんかは存在しない。それで村上春樹という物語作者は、“1Q84年” という時空間を設定し、どこか既視感がありながら、現実の世界とは微妙にずれている物語空間を作り出そうとしたのである。
もう一人の主人公の青豆が陥ったパラレルワールドを描いた “1Q84” の世界の、物語としての面白さは認めざるをえない。だが、この虚構空間を、もう一度『現実』に還元した時に見えてくるのは、現実の事件や人間や、いろいろの問題の解決法としての “底の浅さ” 以外のものではないのではないか。暴力やテロや戦争を、こんな低い鞍部で越えてよいものだろうか。村上春樹作品における根源的な物語る力の衰弱を感じざるをえなかった。(…) 現実の世界を少しずらしながら、小説についての小説を書くこと。これは、物語を物語ることの衰弱なのか、あるいはその極限というべきだろうか。小説と現実は乖離しているのだろうか。現実という壁に対しての、壊れものとしての卵のような小説。しかし、そうした比喩に、現実の壁に届かない卵の自壊作用が含まれているのではないか。」(毎日新聞、6月29日夕刊)

わかりにくい批評である。
ひとつはこの批評家が、小説作品の価値を考量するときに、「現実の事件や人間や、いろいろの問題の解決法」を示したかどうかを基準としている(らしい)のだが、その意味が私にはよくわからなかったからである。
小説作品の価値というのは、「暴力やテロや戦争」といった「いろいろの問題」をどのように効果的に解決したかで決まる、というふうに理解してよろしいのだろうか。
それも一つの考え方だとは思うが(私は必ずしも同意しないが)、だが、その場合、ある小説がそれらの問題を「解決した」かどうかは、あるいはその「解決法としての底の深浅」は誰が何を指標にして判定するのだろうか。
私たちを説得したいと望むなら(違うかもしれないが)、その場合には、村上春樹を否定的に評価することの論拠として、川村は「暴力やテロや戦争」を現に解決してみせた文学作品の例をいくつか列挙して、「これらの作品に比較したときに劣っている」というふうに論を進めるべきではないかと思う。
ある文学作品を「・・・ができていない」とか「浅い」といった言い方で批評した場合は、「・・・できている」作品や「深い」作品をそれと対比させなければ、批評家が何を基準にしてそう判定しているのか、私たちにはわからない。作品を評価する手だても、考課している当の批評家の判断そのものの適切性を評価する手だてもない。
以前、「村上春樹の世界性」を疑問視するある批評家が、こう問いただしたことがある。

「どうして春樹のアラビア語訳やウルドゥー語訳が存在していないのでしょうか。これは言語をめぐる政治の問題です。はたしてバグダッドやピョンヤンでは春樹は読まれているのでしょうか。世界がハルキを読む。大いに結構です。だがその場合の『世界』とは何なのか。端的にいって勝ち組の国家や言語だけではないのか。ここに排除されているものは何なのか。誰なのか」

これは「言いがかり」に類するもので批評の態をなしていないと私には思えた。
アラビア語やウルドゥー語の訳が存在しない文学作品は所詮ローカルな文学であり、ピョンヤンでもバグダッドでも読まれるものでなければ、世界的とは言えないというロジックを認めたら、この世に「世界文学」などというものは存在しなくなる。
村上春樹の文学が世界的ではないというのは一つの判断である。
けれども、村上春樹の作品は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、ハンガリー語、フィンランド語、デンマーク語、ポーランド語、インドネシア語などに訳されており、その語種は年々増加している。
その語種が世界のすべての言語を網羅していないからという理由で、どのような外国語にも翻訳されていない小説と村上春樹の小説は「どちらも非世界的である点で選ぶところがない」という判断を下すことにどのような積極的な意味があるのか、それによって村上春樹作品についての理解がどれほど深まるのか、私にはわからない。
「世界的」とは「世界中のすべての言語で訳されていること」というであるという基準を適用すれば、「世界的文学」というものは過去にも現在にも存在しないし、おそらく未来にも存在しないであろう。
その場合に、ある文学作品を指して、「これは世界的ではない」と言ってみても、それは現存するすべての文学作品に妥当することなので、個別作品についての理解は少しも深まらない。
それは「これは本である」と言っていることとほとんど変わらない。
「それがどうした」という以外にどのような反応をこの批評家は期待していのか、私にはうまく想像できない。
同じことを私は川村のこの批評についても言えると思う。
批評家はどうやら「現実の事件や人間や、いろいろの問題の解決法として」“底の深さ” を示した文学作品、「暴力やテロや戦争」を高い鞍部で越えた作品、「根源的な物語る力」の横溢している作品、「現実と乖離していない」小説、「現実の壁に届く」作品を読みたく思っているが、村上春樹の新作がその期待に応えてくれなかったことを不満に思っているようである。
それは個人的な印象なのだから、余人の容喙すべきことではない。
けれども、もしその不満に汎通的に有用な知見が含まれていると思っているなら、せめて彼が「及第点」を与えられる作品はどういうものなのか示し、その根拠を挙証する義務からは免れないだろう。
「彼から見て100%の文学作品」がどのようなものであるかを示さないままに、個別作品を格付けするのは手続きとして適切ではない。
あるいは、この世に「100%の文学作品」などというものは存在せず、すべての作品は程度の差はあれ「底が浅く」、「暴力やテロや戦争」を低い鞍部で越えており、「根源的な物語る力」を欠いており、「現実から乖離」しており、「現実の壁」に届いておらず、村上春樹の新作もその点では他と選ぶところがないと言いたいのかも知れない。
その場合には、私はもう同じ言葉を繰り返さなければならない。
他のすべての場合に妥当することがこの作品にも妥当すると教えてもらったことによって、私たちのこの作品についての理解はどれだけ深まるのか。私たちがこの作品から引き出すことのできる快楽はどれだけ増大するのか。私たちの世界の文学的生成力はどれだけ賦活されるのか。
この問いについても批評家には答える責任があると思う。
いやそうではなく、村上春樹の新作だけが例外的に「底が浅く」「鞍部が低く」「現実から乖離している」というのだとしたら、(私はこの判断にはつよく興味を惹かれるが)、なぜ村上春樹の場合にのみ、そのようなことが選択的に起きたのか、ぜひその理由についての仮説を語っていただきたいと思う。
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