草食な時代

2009-04-29 mercredi

四年生の専攻ゼミでは「草食男子から平成雑食メンズ」というお題でお話を伺う。
こういう世代論的分類法はどれほど信憑性があるのかしらないけれど、遠く「モボモガ」や「アプレゲエル」の時代から始まって「太陽族」「六本木族」「みゆき族」など「族」時代を経て、「○金/○ビ」、「根暗」、「新人類」、など無数のバリエーションがある。
どれも世相をすぱりと切り取って、鮮やかである。
今回の「草食系」というのはネーミングが卓越していたので、広く人口に膾炙した。
けれども、それも「もう古い」のだそうである。
一月ほど前にはじめて耳にした世代分類カテゴリーが「もう古い」と言われては、おじさんの立つ瀬がありません。
きみたちの好きにしたまえ。
ただ、高度成長期、バブル期など「お金がだぶついているとき」は肉食系の生き方が有利であり、低成長・不況・雇用不安期には草食系の生き方が有利であるという大きな流れはあると思っていいだろう。
資源が潤沢にあるときは、「勝ったものが総取りする」というルールが可能である。
ワイルドなルールが適用されるのは、実は「負けたもの」が「余り物」で十分生きていけるほどに資源が潤沢だからである。
けれども、資源に限りがある状況では、資源の分配にはそれほど手荒な方法は採れない。
まず弱者に手厚くして、共同体から脱落者を出さないことが、相対競争の優者がひとり特権を享受することよりも優先的に配慮されるようになる。
こういう分配ルールのシフトはほとんど無意識的にスイッチが切り替わる。
私の記憶では1950年代までは日本人は総じて「草食的」であった。
サバンナのトムソンガゼルのように、身を寄せ合って、敗戦国の劣位という窮乏に耐えていた。
関川夏央さんが「共和的な貧しさ」と呼んだのは、この草食動物的な群居本能がこの時期に採択した生存戦略のことである。
1964年の東京オリンピックを境として、日本人はしだいに「肉食」化していった。
それはスタンドアロンで動く方が群れをなすよりも可動域が広く、「狩り」のチャンスも収穫も大きいという考え方が可能になったからである。
それだけ「狩り場」が広くなり、「獲物」も増えてきたということである。グローバル化とはそういうことである。
社会が豊かになると「肉食」的な生き方の方が有利となる。
弱者や劣者を「食い物」にする生き方が推奨される。
そういう「肉食ベース」が 1992 年のバブル崩壊まで続いた(頭の切り替えができない人たちの間では 2008 年のリーマンショックまで続いた)。
私たちは今、資源は有限である以上、分配は「まず弱者から」という草食的発想に戻りつつある。
一昨日、私は芦屋ラポルテの前を歩いていた。
そこでは交通遺児たちのための募金活動が行われていた。
私は過去 20 年間、この募金箱の前を素通りしていた。
ところが、一昨日私はほとんど無意識に財布を取り出して、募金箱に募金をしてしまった。
私の前を歩いていた人も私の後ろを歩いていた人も、三人がほぼ同時に財布を取り出して募金箱に千円札を投じていた。
たぶんそれが「時代の空気」なのである。
自分は相対的には豊かであると思っている人間がそのことについて一抹の「疚しさ」を覚えるような時代の空気になっている。
もちろんそんなことを少しも感じないで、自己利益の追求に熱中している人もまだたくさんいるだろう。
けれども、そういう生き方はもう「デフォルト」ではなくなった。
私にはそう感じられる。
募金箱にわずかばかりの金を投じたくらいのことで何を大仰な、と思う方もいるだろうけれど、私の経験は、時代の変化はこういうささいな徴候のうちに表れると教えている。
地球生態系に65億の人類をこのまま養うだけの資源がない以上、総体として私たちが「飢餓ベース」「貧困ベース」「弱者ベース」の生存戦略に切り替えることはおそらくは人類学的必然であるように私には思えるのである。
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