あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛しなさい

2009-03-19 jeudi

卒業式。
本学の学院標語のもとになった聖書マタイ伝の聖句を入学式、卒業式とあわせて16回拝読してきたが、これが最後。
不思議なもので、クリスチャンではない私でも聖書の同一箇所を4年にわたり16回も朗朗と読み上げていると、聖句の深みが身にしみてくる。
けだし儀礼の効用というべきか。
マタイ伝22章34節から40節とは次のような聖句である。

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言いこめられたと聞いて一緒に集まった。その中のひとり、律法の専門家が、イエスをためそうとしてたずねた。「先生、律法の中で、どの掟がもっとも大切でしょうか」。イエスは言われた、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これがもっとも大切な第一の掟である。第二の掟もこれと同じように大切である。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。

現行の日本聖書刊行会の口語訳と私が読み上げる聖書の訳語は少し違っているようであるし、聖句もうろおぼえであるが、まあ、だいたいこんな感じである。
「愛神愛隣」というのが神戸女学院の学院標語である。
「神を愛し、隣人を愛す」
簡単な言葉のようだが、これは実に解釈の困難な聖句なのである。
この聖句自体はイエスのオリジナルではなく、ユダヤ教のラビたちによって古代から連綿と伝えられた口承である(と飯謙先生に以前教えていただいたことがある)。
「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という聖句をふつう私たちは「自分を愛することは容易であるが、隣人を愛することは困難である」と解する。
私たちは「自分を愛する仕方」は熟知しているが、「隣人を愛する仕方」はよく知らないと考えている。
だが、それはほんとうだろうか。
私たちは自分を愛する仕方を熟知していると言えるであろうか。
例えば、私たちの国では年間3万人を越える人々が自殺をしている。
彼らは「自分を愛している」と言えるだろうか。
家族の愛や友人から信頼を失って、「こんな私に生きている価値はない」と判断して自殺する人がいたとする。
その人の場合、「こんな私に生きる価値はない」と判断した「私」とその「私」によって死刑を宣告された「私」の二つの「私」のどちらが「ほんとうの私」なのであろう。
それほど極端な例をとらなくても、「自己卑下」や「自己嫌悪」は私たちにとって日常茶飯事である。
そもそも向上心というもの自体が「今の私では満足できない」、「私自身をうまく愛せない」という事実から推力を得ているとは言えまいか。
だから、もし「社会的上昇」や「他者からの敬意」を努力目標にすることが万人にとって「よいこと」であるというのがほんとうなら、私たちは隣人に対しても「もっと自分を嫌いになれ」と勧奨すべきだということになる。
論理的にはそうなる。
そして、隣人が自分自身を嫌いになるためにいちばん効果的な方法は「現に私はお前が嫌いだ」と言ってあげることである。
そうですよね。
人から「愛している」と言われて、「このままではいけない」と生き方を改める人間はあまりいない。
でも、人から「嫌い」と言われたら、よほど愚鈍な人間以外は、すこしは反省して、生き方を変える機会を求める。
だから、隣人たちの向上心を沸き立たせ、彼らが自己超克の努力に励み、ついには「自分探しの旅」に旅立るように仕向けるためには、隣人に向かって、「お前なんか嫌いだ」と言ってあげることはきわめて有効なのである。
現実に私たちは日々そうしている。
気がついていないだけで。
だから、まわりを見まわしても、「自分を愛する」仕方を自然に身につけている人は少ない。
それよりは権力や威信や財貨や知識や技芸によって、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」という迂回的なしかたでしか自分を愛することのできない人間の方がずっと多い。
だが、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」ほどのリソースを所有している人間はごく少数にすぎない。
だから、結局、この社会のほとんどの人間はうまく自分を愛することができないでいるのである。
資本主義市場経済というのは「私はビンボーだ」という自己評価の上に成立している。
「私が所有すべきであるにもかかわらず所有していないもの」への欲望に灼かれることでしか消費行動はドライブされないからである。
同じように、高度情報社会も格差社会も知識基盤社会も、どれも「私は今のままの私を愛せない」という自己評価の上に成立している。
「私は私によって愛されるに足るほどの人間ではない」という自己評価の低さによって私たちは競争に勝ち、階層をはいのぼり、リソースを貯め込むようになる。
私たちが私たちを愛せないのは、私たちのせいではなくて、社会的なしくみがそうなっているから当然なのである。
麻生首相は先日の記者会見で「子どもの頃からあまり人に好かれなかった」とカミングアウトしていた。
私はこれは「正直」な告白ではあるが、「事実」の一部しか語っていないと思う。
人に好かれなかった以上に、彼は「自分が嫌い」だったのである。
「こんな自分が他者から愛されるはずがない」という自己評価の切り下げを推力にして、彼は向上心にエネルギーを備給し続け、ついに位人臣をきわめた。
彼は現代的な人間形成プロセスのわかりやすい成功例だと私は思う。
彼がこれほどメディアで叩かれながら、少しもひるまないのは、どんなメディアの記者も「麻生太郎が嫌い」という点において麻生太郎に及ばないからである。
閑話休題。
私たちの生きている時代は「自分を愛すること」がきわめて困難な時代である。
自分を愛することができない人間が「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるであろうか。
私は懐疑的である。
マタイ伝の聖句には「主を愛すること」「私を愛すること」「隣人を愛すること」の三つのことが書かれている。
本学の学院標語は「愛神愛隣」のみを語り、「愛己」については言及していない。
それは「愛己」が誰にでもできるほど容易なわざであるからではなく、その語の根源的な意味において「自分自身を愛している人間」がこの世界に存在しないことを古代の賢者はすでに察知していたからではないかと私は考えるのである。
というわけで、卒業に際して、卒業生のみなさまにひとこと「むまのはなむけ」とてタイトルのごとき一句を掲げたのである。
「人を愛すること」自体はそれほどむずかしいことではない。
けれども愛し続けることはむずかしい。
四六時中いっしょにいて、その欠点をぜんぶ見せつけられて、それでも愛し続けることはきわめてむずかしい。
けれども、努力によって、それも可能である。
そのように人を愛することが、「だいたい10人中7人くらいについてはできる」ようになったら、その人は「自分を愛する」境位に近づいたと申し上げてよろしいであろう。
ご卒業おめでとう。
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