「いきなりはじめる」縁起

2009-03-08 dimanche

明日から極楽スキーなのに風邪ぎみで寝付いている。
なにしろ長いこと「休日」というものがなかったので、ひさしぶりの休日になると体調が崩れるのである。
しかし、寝ているわけにはゆかない。
スキーに行く前に締め切りの原稿を書き上げて送稿せねばならぬ。
鼻水を垂らして、咳き込みながら、釈先生の『不干斎ハビアン』(新潮選書)の書評を書く。
げほげほ。
せっかく書いたので、書評の一部をコピペしておく。

「不干斎ハビアンは戦国時代末期の人である。はじめおそらく臨済宗の禅僧であったが、のちに改宗して、キリシタンになった。仏教・儒教・道教・神道に通暁した学識豊かなイルマン(修道士)として、際立った活躍ぶりを示した。『妙貞問答』で仏教批判の先鋒を担ったが、突然、修道女を伴って棄教。晩年に『破提宇子(はだいうす)』という烈しいキリシタン批判の書を著して死んだ。一世において禅僧、キリシタン、背教者という振幅の多い経験をした人物である。
このハビアンを近世日本史上に輝く傑物と見る人もいれば、「転向者の元祖」、日本型インテリゲンチャの原型と見る人もいるし、山本七平のように「日本教徒」の祖型と解する人もいる。それだけ謎めいた、奥行きのある人である。にもかかわらず、ハビアンについての本格的研究がなされるようになったのはかなり近年のことらしい。
本書は現在入手しうる限りのハビアンについての文献資料を渉猟して、比較宗教学者で、自身浄土真宗の僧侶である釈徹宗がハビアンの思想と生涯の宗教学的意義を論じたものである。」

ここまでが「まくら」で、ここから本文が始まるのである。
本文は『プレジデント』で読んでくださいね。
釈先生とは昨日の朝日カルチャーセンターでの対談「祈りの諸相」でご一緒したばかりである。
釈先生は如来寺の住職をされて、認知症のグループホームを運営し、兵庫大学の先生として宗教学を講じている。あれほど忙しいのに、どうしてこんな本を書く暇があるのか、わからない。(甲南麻雀連盟の例会にご来駕くださる暇さえないというのに)
去年から今年にかけて、立て続けに『いきなりはじめるダンマパダ』(サンガ)、『仏教ではこう考える』(学習研究社)、『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ)と出版されている。
このあとも私との共著の『現代霊性論』(講談社)が出るし、昨日やった対談も、サンガから出す本のコンテンツになるのである。
ほんとによく働く人である。
「いきなりはじめる」というのは釈先生のシリーズのタイトルとしてご愛用いただいているが、実はもともとのコピーライトは私の旧友故・竹信悦夫くんに属するのである。
1975 年の初春に卒業を前にして、大学院の入試を受けるために私と竹信くんが付け焼き刃の受験勉強をしていたことがあった。
専門は私が仏文で、彼は西洋史である。
竹信くんは卒論ですでに高い評価を受けており、英語にも堪能であったので、「第二外国語のフランス語でそこそこの点数をとれば大学院に入れる」と指導教員の板垣雄三先生から太鼓判を捺されていたのである。
しかし、どんな場合もぎりぎりになるまで腰を上げないあの性格(ご存じのひとも多いであろう)が災いして、結局院試の四五日前になって私のところに駆け込んできたのである。
「ウチダ、フランス語教えてくれ」
なんと、彼はフランス語の初級文法をすでにほとんど忘れていたのである。
私たちはそれから三日間、こたつに入ったまま、ときどき失神したように仮眠を取りながら、フランス語文法の全課程を復習した。
そんなときに疲弊し果てた竹信くんがぽろりと漏らしたのが「ウチダさあ、この世に『いきなり始めるフランス語』とか『寝ながら学べるフランス語』とかいう本はないのかね」という一言であった。
結果はご賢察のとおり(おそらくは私のフランス語知識に致命的な欠陥があったせいで)、東京大学は優秀な中近東現代史学者を一人失い、かわりに朝日新聞社が優秀な記者を一人手に入れることになった。
私の脳裏にはそのあとずっと「いきなり始める」と「寝ながら学べる」というふたつの言葉が刻み込まれたままであった。
二十歳のときの私たちのような人々のためにも「いきなり始める」と「寝ながら学べる」シリーズがすべての学的領域をカバーするべきではないか、それが私の使命として感知せられたのである。
もちろんこのような大事業は私ひとりでなしうることではない。
各界の篤志者たちとのコラボレーションなしには果たせないことである。
釈先生はその消息をよくご理解くださって、このシリーズのために次々と本を書いてくださっているのである。
こたつでの受験勉強には余話がある。
そのあと、竹信くんがパリの本屋で sans peine という語学入門書のシリーズを発見して、持ち帰ったことがあった。
フランスのリセの生徒たちのためのもので、「ラテン語 sans peine」とか「ヘブライ語 sans peine」というようなタイトルのものがずらりと書架に並んでいるのは私も見て知っていた。
「ウチダ、sans peine というのはどういう意味なんだ」
「『苦しみなしの』という意味だろ」
「『涙なしの』か」
そして、九品仏の暗い下宿とこたつでの勉強のことを思い出して、ふたりともしばらく黙ったのである。
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