足元を見よ

2009-01-13 mardi

ジブリが出している「熱風」という雑誌がある。
そこに宮崎駿が2008年11月20日に日本外国特派員協会で質疑応答があったときのやりとりが採録されている。
宮崎駿が天才であることに異論のある人はいないだろう。
その天才はつよい思想に裏づけられている。
一読して驚いたのは、宮崎駿もまた「国内市場のサイズ」と「国内需要」を創作のキーワードに挙げていたことである。
宮崎はハンガリーの記者の「日本の観客と世界の観客の違いを意識しているか」という質問にこう答えている。

「実は何もわからないんです。僕は自分の目の前にいる子供達に向かって映画をつくります。子供達が見えなくなるときもあります。それで中年に向かって映画をつくってしまったりもします。でも、自分達のアニメーションが成り立ったのは日本の人口が一億を超えたからなんです。つまり日本の国内でペイラインに達することができる可能性を持つようになったからですから、国際化というのはボーナスみたいなもので、私達にとっていつも考えなければいけないのは日本の社会であり、日本にいる子供達であり、目の前にいる子供達です。それをもっと徹底することによってある種の普遍性にたどり着けたらすばらしい。それは世界に通用することになるんだ、って。」(『熱風』、2009年1月号、スタジオ・ジブリ、p・61)

私はこれこそ彼の慧眼を示す言葉だと思う。
日本のクリエイター(知識人も含めて)の中で、「自分の仕事が成り立ったのは日本の人口が一億を超えたからなんです。日本の国内でペイラインに達することができる可能性を持つようになったからです」ときっぱり言い切れる人が何人いるだろう。
あらゆる仕事には端的に「それで飯が食えるかどうか」というきわめてクールでリアルな分岐線がある。
専門的な技能や知識とその分岐線の間には直接の関係はない。どれほど専門的に高い技能や深い知識があっても、それに対して対価を支払う市場がなければ、「それでは食えない」。
日本のクリエイターは世界的に見ても、きわめて恵まれた制作環境にいる。
日本人相手に日本語ベースの制作物を提供しているだけで、「飯が食える」からである。
「飯が食える」どころか、うまくすると「世界的レベルの仕事ができる」のである。
もちろん、順番を逆にして、「世界的なレベルの仕事をしよう」と思っていきなり世界に飛び出してゆくクリエイターもいるだろう。
私とて、その志を壮とするにやぶさかではないけれど、私たちの国では「国内的なニーズに合った仕事」をしているだけでとりあえず飯が食えるという事実の「重み」を忘れてはならないと思う。
そういうことを言うと、「『内向き』だからダメなんだ」と識者たちは口にする。
だが、そう言っている諸氏の言説が現にメディアに流布し、おかげで評論家とか知識人として「飯が食えている」のは彼らが日本人オリエンテッドな「内向き」言論活動を専一的に行っているせいであるという基礎的事実を忘れてもらっては困る。
「内向きはダメだ」と言っている諸君はいったい「誰に向かって」それを言っているのかについて五秒ほど考えてから言葉を継いだ方がよいであろう。
私自身は徹底的に「内向き」な言論活動を行っている。
実は、それは師匠の教えに従っているのである。
かつて多田先生に「武道家としてまず心すべきことは何でしょう」と訊いたことがある。
そのとき、長時間のインタビューを終えたあと、月窓寺道場の入り口に私たちは立っていたのだが、先生は沓脱ぎに掲げてある木札をすと指さして「脚下照顧」とおっしゃった。
「足元を見ろ、だよ。内田君」
爾来、私は師のこの言葉を座右の銘としている。
多田先生のこの教えは二重の意味で深いと私は思う。
私は先生に「最後に一つだけ」と質問をしたのであるが、それに対して先生は目の前にあるものを指さして応じられたのである。
私はそのときには「たまたま」ぴったりの言葉が書かれている木札の前に私たちは立っていたのだ、おお何という偶然であろう・・・というふうに思っていたのであるが、今となるとそれは違うのではないかと思う。
私が同じ質問を例えば、月窓寺を出て吉祥寺のサンロード商店街を歩きながら先生に向けたら、たぶん先生は違う看板を(例えば「気をつけよう甘い言葉と暗い道」とか)指さして、これまた私の背筋をぴんと伸ばすような言葉をおっしゃったに違いない・・・ということに気づいたからである。
武道は「石火の機」を重んじる。
訊かれたら即答。
その場にあるものをためらうことなく「それ」と指さして、「これだよ」と言わなければならない。
多田先生は大先生や天風先生に師事した時間を通じて、そういう呼吸を体得されたのだと思う。
ロラン・バルトが俳句について書いていた言葉を思い出した。
バルトは「石火の機」の消息に理解が及んだ数少ない西洋の思想家の一人である。

「俳句は純粋な単一の指示作用にまで縮減されている。(…) 一筆で、一気に引かれた線のように、そこには迷いもためらいもない。(…) 俳句は子供が指で何かを指し示して、一言『これ!』(Ça!) と言うときの仕草を再現しているのである。」(Roland Barthes, L’Empire des signes, in Oeuvres complètes II, Seuil, 1994, p.804)

石火の機で「これ」と言い切れるのは、まさしくそのような問いがなされる当のそのときに他ならぬ「これ」の前に私はいるように宿命づけられているという絶対的な確信がその前段にあるからである。
「脚下照顧」とはそのことである。
足元を見ろ。それがお前だ。
私たちが普遍性にゆきつく隘路があるとしたら、それは足元からしか始まらない。
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