握らない一教

2008-11-30 dimanche

死のロードの最終日一日前。
楽しい合気道のお稽古。
なんだかやたらたくさん人が来ていて、40 人近くいる。
このところ、みんな上り調子なのである。
合気道がおもしろくてしょうがないという顔をしている。
たぶん、きっかけの一つは「握らない一教」からである。
正面打ち一教、とくに裏のとき、腕の力を使いがちになる。
これがどうもよくないのだけれど、なかなか修正が効かない。
がばっと相手の肘を握って、引き倒すようなかたちになると、「斬り」にならない。
原理的にいうと、ものを「斬る」ためには刃筋がつねに体の正中線上になければならない。
しかし、徒手の武術しか経験のない人たちに「刃筋」という概念を理解してもらうのはなかなかむずかしい。
ふと思いついて、取りは肘を握らない、手首も握らない、掌を当てるだけの稽古をすることにした。
発想の転換である。
「受けの身体運用」を中心に稽古するのである。
手首、肘に受ける圧力を全身に均等に分散するような身体の使い方をする。原理的にはふだんの稽古のときもそうしているわけなのだが、強い圧力を感じると、反射的に身体が硬直することは避けがたい。
けれども、圧力が弱いと、それに柔らかく応じることは心理的にも生理的にもそれほどむずかしくない。
手首も肘も掌が当たっているだけであるから、相手の体感が微弱である。
微弱な信号を察知して、それを「受け流す」稽古の方が身体感度を上げるためには効果的ではないか。
そう思ったのである。
「方便」としての稽古だから、取りの弱い動きはむろんそのまま武術的に有効ではない。
それでも、「握らない」と正中線の意識ははっきり向上する。腕力の使用を禁じると、斬りの線の精度以外に「使える道具」がないからである。
受けの感度を上げ、取りの運動精度を上げる、という二点でこれはなかなかよくできた型である。
ふだんからばんばん投げ合い、ぎしぎし関節を決めるような稽古をしている人から見たら、「なんか軟弱」と思えるかもしれないが、計画的なプログラムの中でだと、こういう種類の稽古は十分に有効である。
初心者の術技の向上はあきらかに早いし、上級者も気づかないうちに身についた癖を補正できる。
長く指導してわかったことのひとつは、「既知の技」を「既知のパターン」で繰り返す稽古で「壁を破る」よりも、「既知の技」を「未知のパターン」に書き換えて「おお、この技には『こういう意味』もあったのか・・・」と気づくことの方が「ブレークスルー」には効果的だということである。
言い換えると「頭と身体の両方を使う」稽古の方が「身体だけを使う稽古」よりも「使っている身体部位が多い」ということである。
頭だって身体の一部なんだから。
「ややこしいこと」をするときの方が「簡単なこと」をするよりも身体の使用部位が多い。これは必ずそうなる。
逆に言えば、生物は「簡単な動き」を「複雑に行う」ということができない。
それは野生動物をみているとわかる。
彼らは最小限のエネルギー消費で身体を動かす方法を知っている。
もちろんそれは「窮乏」ベースの環境を生き延びる上では死活的に重要なことだ。
だから、合気道でも、簡単な動きを単調に反復練習していると、いつのまにか「できるだけ他の身体部位を使わないで、最小エネルギー消費で、最小の運動で、局所的に処理する」という回路ができてしまう。
これはエネルギー効率的には合理的な判断なのだが、それはあくまで「窮乏ベース」の話で、「生き死にベース」になると話は変わってくる。
生き死にがかかわるときは、後先考えずに、使える限りの身体的リソースを総動員する身体運用でないと対応できない。
私たちは「できるだけ楽に生きる」技術と「何が何でも生きる」技術を同時に学ばなければならないのであるが、この二つは別の体系に属している。
武道は「楽に生きる」ための技術ではない。最短時間に最大エネルギーを支出できる「回路」を形成するための技術である。
「合理的な生き方」と、「最大限の力を発揮する生き方」は、どちらも必要であるが、訓練のやり方が違う。
「握らない一教」はわずかな入力に最大の出力を以て応じる身体回路を作るための稽古である。
いわば、「鶏を割くに牛刀を以てする」ようなものである。
「合理的に生きる」技術と「何が何でも生き延びる」技術は目的が違い、訓練法が違う。
私たちの社会は「合理的に生きる技術」を教えることには熱心だが、「何が何でも生き延びる技術」を教えることには教育的リソースをほとんど投じない。
だから、「全力を尽くさなければ生き延びることができない状況」に備えて心身の訓練をしている若い人を見ることは絶望的にまれである。
今、ほとんどの若者にとって「生き延びることができない」状況というのは「金がない」状況のことである。
金がないから絶望し、金がないから盗み、金がないから人を殺し、金がないから自殺する。
そういう考え方が「あり」だと思っている人たちは「骨の髄まで合理主義者」なのである。
というのは、貨幣というのは「より合理的に生きる」ために発明された制度だからである。
「大量の貨幣」は「より合理的に生きられる」ことを保証しはするが、「何が何でも生きられる」ことは保証しない。
それは「タイタニック号沈没のとき」とか「ゴジラ来襲のとき」を想像すれば子供にもわかる。
私たちが稽古しているのは「沈みそうな船には乗らない」稽古、「ゴジラが来そうな町には住まない」稽古なのであるが、こんな説明でわかってくれる人はあまりいない。
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