隔週で短いエッセイを連載をしているので、『AERA』が毎週送られてくる。
寝転がって今週号をぱらぱら読んでいたら、なかほどのグラビアに「特別企画21世紀大学」というタイアップ記事があって、そこに昭和大学が取り上げられていた。
あら・・・と思って、半身を起こして頁に目をこらしたら、小口勝司理事長が笑ってこちらを向いていた。
「かっちゃん」は日比谷高校の一年生のときの級友である。
ぼくは大田区のはずれのカントリーフレイバーな中学から日比谷高校に入って、がちがちに緊張していて、一年生のときから勉強ばかりしていた。
「かっちゃん」は神田明神の境内に住んでいる江戸っ子で、ぱりっとしたシティボーイだった。
ぼくはなんとなく敬して遠ざけ、前期の半年の間、たぶん一度も口をきいたことがなかった。
後期になってぼくは生徒議会の議員というものに選出され、その集まりが昼休みにあり、午後の授業に数分遅刻して教室に入った。授業はもう始まっていた。
「生徒議会で遅れました」と担当のコジマ先生に言うと、「ああ」と鷹揚にうなずいて着席を許してくれた。でも、前の方には空いている席がない(日比谷高校は大学と同じく、生徒たちは授業のたびに指定された教室に移動して講義を受けたのである)。
結局、一番後ろの席が一つだけ空いていたので、そこに座った。
教科書とノートを取り出して、遠くの方の教卓を眺めていたら、教室の後ろの扉が開いて、ぼくよりさらに遅刻してきた「かっちゃん」が入ってきた。
彼は最後列に空いている席を探して、そのまま隣に座った。
「一つだけ空いていた」はずなのに彼がぼくの隣に座れたのは、教室の後ろに置いてあったゴミ箱をひきずってきて、その上に当然のように自分の鞄を置いて、その上に座ったからである。
ぼくはびっくりして隣の「かっちゃん」の横顔をまじまじと見つめた。
「かっちゃん」はぼくの方を振り向いて、AERA のグラビアにあるのとそっくりな笑顔でにこっと笑って、「ウチダ君、そんなに勉強して、どうするの?」と訊いてきた。
ぼくは授業中に急に話しかけられて、どぎまぎしてしまい、でも、「授業中だから静にしてよ」みたいな優等生的なことは言いたくなかったので、「そ、それはね・・・」とつい本気で考え込んでしまった。
そのとき生物のコジマ先生が「そこ、うるさいぞ。しゃべるなら出て行け」と怒鳴ったので、ぼくはなんだかがっくりしてしまった。
それが高校に入って教師に怒られた最初の経験だったからである。
「最長不倒距離」がここで終わったか・・・と思ってなんだか気落ちしてしまったのである。
ぼくは恨みがましく「かっちゃん」の方を見たが、彼は平気な顔でにこにこしていた。
その生物の時間のあとぼくたちはなんとなく、校庭の銀杏の木の下までいっしょに歩いて、そこでそのまましゃべり続け、どういうわけか翌日いっしょにアメ横に行くということになった。
ぼくが中国製の「英雄」という「パーカーもどき」のペンを買いたいと思っているのだといったら、彼がアメ横に案内してあげると言ったのである。
翌日、ふたりでアメ横に行き、そのあとお茶の水の彼の家に行き、彼のフルートを聴いたりして、そのまましゃべり続けて、そのうちに夜になっても話が終わらず、ついでに晩ご飯をごちそうになり、そのまま彼の家に泊まってしまった。
いったい何をそんなに話すことがあるの、と「かっちゃん」のお母さんがびっくりしていたけれど、もう止まらなくなってしまったのである。
その日から高校二年の夏までの半年ほどぼくはほとんど「かっちゃん」としゃべり続けていた。政治について、文学について、音楽について、革命について、恋愛について、高校生が話しそうな話題の全領域にわたってしゃべり続けた。
ぼくが「かっちゃん」から受けた影響ははかりしれない。
なにしろぼくはまだ16歳になったばかりで、ほんとうに「スポンジ」が水を吸うように、未知のことに対して開放的だったからである。
ぼくが彼から学んだいちばん大きな教訓は「こども」のままでは「おとな」になれない、ということだったと思う。
ぼくは「こども」でも知識や技能や身につけ、経験を積むと「おとな」になれると思っていた。
「かっちゃん」はそれは違うと言った。
「こども」と「おとな」の間には乗り越えがたい「段差」がある。
そして、その段差を超えるときに、「こども」のもっている最良のものは剥落して、もう二度と取り戻せない。
その「段差」はだんだん迫っている。いまのこの時間は「こどもでいられる最後の時間」なんだ。だから、その時間を味わい尽くなければならない。
「かっちゃん」は16歳ですでに自分のもっているもののうちで「限りあるもの」のリストを作っていた。
ぼくはその理路がよく理解できなかったけれど、それから半年ほど他の仲間たち(それはほとんど全員「かっちゃん」の友だちだった)と「限りあるもの」を味わい尽くすというプロジェクトに熱中した。それはめちゃくちゃに楽しい日々であった。
そして、ある日「かっちゃん」は「おしまい」を宣言した。
ぼくにはその意味がよくわからなかった。「もっと遊ぼうよ」とぼくはごねた。
かっちゃんは「おしまいがあるから楽しいんだよ」とちょっと悲しそうな眼をした。「さあ、おとなになろうぜ」
ぼくはそのあともなかなか「おとな」になれず、ずいぶん苦労をすることになった。
「かっちゃん」はちゃんと「おとな」になって、祖父が建学した昭和大学医学部に入り、卒業して大学に残って、研究者になり、やがてその大学の先生になり、理事長になった。
だから、58歳になった「かっちゃん」の笑顔は17歳のときに見たのとあまり変わらないのである。
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(2008-11-13 21:11)