アメリカの選択

2008-10-01 mercredi

金融危機に歯止めをかけるはずだった金融安定化法案が下院で否決され、ニューヨーク株式市場は「史上最大の下げ幅」を記録し、アメリカ発の金融危機が世界同時株安へと連鎖しようとしている。
そうですか。
法案が否決された理由は「高給取りの金融マンを救済するためになんでワシらの税金を投入せにゃならんの」という選挙民の感情に配慮したためだそうである。
11月に下院選挙があるので、ここで民意を逆撫でするような投票行動を取ると落選する可能性がある。だから、世界株安になろうと、世界各地の金融機関がばたばたつぶれようと、「オレの選挙」の方が優先という政治家心理が働いた結果だそうである。
もちろん、市場原理主義という大義名分もある。
生き残る企業と退場する企業はマーケットが選択する。政府がこれに介入すべきではない。
なにしろ、「マーケットは間違えない」という原則に従ってこれまでやってきたのである。
なるほど。
法案否決の報にわが国の財務省幹部は天を仰いだそうであるが、別に驚くほどのことはあるまい。
政治家なんてそんなものだということは自国の政治家を見ていて、先刻ご承知のはずである。
日本の政治家は選挙のことしか考えないバカだが、アメリカの政治家は世界秩序のことを優先的に考えている立派な人たちだともし財務省の幹部が思っていたとしたら、その短見は責められなければならない。
アメリカの議員もやっぱりバカなんです。
サブプライムローンのことを書いたときに、これは「国民を全員バカ化することで利益を上げるシステム」であるから、成功すればアメリカが滅びるのは論理的には自明のことであると書いたけれど、「国民総バカ化」趨勢は私の予想を超えて深く進行していたようである。
少し前に『チャーリー・ウィルソンの戦争』という映画について、こんな映画評を書いたことがある。
アメリカの下院議員の話である。

1979 年アフガニスタンにソ連軍が侵攻したあと、アフガニスタンのイスラム教徒たちは 10 年間にわたって反ソ連のゲリラ戦を展開しました。アメリカはこのゲリラ戦士たちをCIAを通じて極秘に支援しました。武器の供与と兵士の訓練です。そのときに訓練された反ソゲリラの兵士たちの中にオサマ・ビン・ラディンもいました。ですから、アメリカはアルカイーダのテロリストたちを自費で養成していたことになります。
このゲリラ支援を強力に推し進めたのがテキサス州選出の下院議員チャーリー・ウィルソンです。彼の強引な議会工作がなければ、おそらくアメリカはあれほど深くアフガニスタン内戦にコミットしていなかったでしょうし、結果的に9・11テロも起こっていなかったかもしれない。善意がかえって仇となるというこの歴史的皮肉がどうしてもたらされたのか、その理由の一部がこの映画では解明されます。
この物語の中には主人公のチャーリー・ウィルソンをはじめ、状況を自力でコントロールできる人間が一人も出てきません。何が起きているのか、自分がいったい何をしているのか、それが世界史的にはどういう意味をもつ決断なのか、実のところ、よくわかっていない。彼らは単に「アメリカが大好き」だったり、「世界は善と悪の二つの陣営の間の戦いだ」と信じていたり、「難民たちがかわいそう」と義憤に駆られたり、それぞれ個人の身の丈に合った尺度でこの国際紛争を眺めているだけです。ふつうの市民がTVニュースを見て憤慨しているだけであれば、別に歴史は変わりません。けれども、それが国防予算の極秘支出額を決定できる議員であると話は違ってきます。
チャーリー・ウィルソンの強みは、考え方がシンプルで、行動力があって、声がでかくて、そして情に厚いテキサス男だということです。「こういう人は悪いことはしない」という直観が私たちを重大な決断に導くということが現実にはよくあります。たぶん、チャーリー・ウィルソンの場合もそうだったのでしょう(トム・ハンクスはまさに適役)。そして、テキサスの自分の小さな選挙区で有権者の日常的陳情(「税金下げて」とか、「銃規制に反対して」とか)に応えてきたのとほとんど同じマインドで、チャーリー・ウィルソンはパキスタン大統領やアフガン戦士の「陳情」に応えてしまいます。
この「日常生活感覚で(浴衣に下駄履きで)国際政治の現場に出て行く」チャーリー・ウィルソンの生き方をマイク・ニコルズはいささかの皮肉と愛情を込めて描き出しています。「そういうふるまい」方が許されているのはアメリカ人だけです(だって世界中どこでも英語は通じるし、世界中どんな場所でも「で、いくら欲しいのかね」と言える人間の言葉は注意深く傾聴されますから)。これまではそれがアメリカの最大の強みでした(いつまで続くのかわかりませんけど)。そして、この映画は「ローカルな政治感覚しか持たない政治家が世界史的決定を下すことのできる力を持たされている」という状況がもたらした悲喜劇を丁寧に描いています。『ランボー3 怒りのアフガン』と一緒に見ると、おもしろさ倍増です。

今読み返してみると、なかなか適切にアメリカの議会政治の問題点を指摘しているではないか。
とくに、「日常生活感覚で(浴衣に下駄履きで)国際政治の現場に出て行くことが許されているのはアメリカ人だけです(だって世界中どこでも英語は通じるし、世界中どんな場所でも「で、いくら欲しいのかね」と言える人間の言葉は注意深く傾聴されますから)」というのはアメリカ人が国際政治にかかわるときのピットフォールであるということは今回の事件であらわになった。
アメリカは「自国語で話すことを世界中のどこでも相手に要求できる」ということと「与える金がある」という二つの事実によって世界に君臨してきた。
これがどういうことかは日本語がリンガフランカであり、あらゆる外国人との会話の席において、相手の面倒な話を遮って「で、要するに君はいくら欲しいんだね」と言える立場に私たちが立った場合にどれくらい急速にバカになるかを想像すればご理解いただけるであろうと思う。
これに類する状況がバブル期に局所的に存在したことを覚えているみなさんは、この条件下で日本人がバカ化する速度が想像を絶したものであることにご同意いただけるであろう。
その点から言えば「アメリカ人はバカ趨勢にずいぶん健気に抵抗した」と評価してもよいと思う。
しかし、歴史の歯車は誰にも止められない。
自分の田舎のローカル・ルールが「グローバル・スタンダード」だと言い募っても誰も反対できない状態に長く置かれた人間が節度を保ち続けることは絶望的に困難である。
アメリカの没落は必然的である。
というのは、上に書いたように、まさに今のアメリカ・システムの弱さは「アメリカが強すぎる」という事実によってもたらされてものだからである。
だから、ここでアメリカのシステムを強化する施策はシステムの危機を拡大することにしかならない。
もちろんアメリカにもクレバーな政治家はいるから、私は21世紀のアメリカは遠からず「モンロー主義」に回帰するだろうと見ている。
「ウォール街のヤッピーたちの生活や、外国の金融危機なんか、オレにはどうでもいい。たいせつなのはオレの明日の米櫃だ」というプア・ホワイトたち悲痛な言葉が幅広い共感をもってアメリカの世論に受け止められたということは、アメリカが精神的な「鎖国」に向かう指標だろうと私は思っている。
というか、アメリカ市民の大多数が「オレ以外の人間なんかどうなってもいい。オレの自己利益の追求だけが重要なんだ」という考え方に同意したときに、アメリカ人はすでに「鎖国」に舵を切ったのである。
この宣言の「オレ」を「アメリカ」に置き換えれば、わかる。
かつてアメリカは不干渉主義を掲げ、他国の戦争にできるだけコミットしないことで未曾有の繁栄を言祝いだ。
その歴史的経験に彼らはまたすがりつくだろう。
11月の選挙でオバマが大統領に選ばれた場合(その確率は高い)、彼は「危機地域の秩序回復よりオレの明日の米櫃」を心配するアメリカ市民の要請に応えて、まず「戦費の削減」から始めるはずである(希望的観測)。
アメリカ人が「節度」という言葉をこの機会にもう一度思い出してくれるのであれば、この世界同時株安をアメリカのターニングポイントを画すものとして、奇貨とせねばならない。
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