政治化するお笑い

2008-07-12 samedi

基礎ゼミの発表で「笑い」について考えた。
「笑い」についてはベルクソンの古典的著作以来無数の研究がある。
しかし、笑いの「政治性」について論じたものはあまり多くない(私は読んだことがない)。
鞍馬天狗や水戸黄門が「わははは」と笑いながら登場するのは、別におかしいことがあるからではない。
笑いには「破邪顕正」という呪術的な力があると信じられているからである。
彼らはまずその場を浄めるために笑う。
現代では、そのような笑いの呪術的効果についての信憑は希薄化しているが、それでも「人より先に、人より大きな声で笑う人間はその場を支配する力がある」ということについての社会的合意は存在する(ガハハハと馬鹿笑いして背中をどづくというようなふるまいは、あれは「私はお前の上司である」という定型的なシグナルなのである)。
人々が見落としがちなのは、この笑いのもつ「政治性」である。
私たちの時代に「お笑いタレント」が社会的ニーズを上回って簇生し続ける理由を私はひさしく不可解に思っていたが、「笑いの政治性」という補助線を引くと、理解が届きそうな気がした。
現在、「政治家になる」というオプションはきわめて閉鎖的である。政治家は歌舞伎俳優とあまり変わらない世襲のファミリー・ビジネスになりつつある。
しかし、「政治性の強い人間」はどんな時代でも一定数生まれてくる。
その受け皿となっているのが「お笑い芸人」ではないかと私には思えたのである。
「お笑い芸人」に要求されるのは「自分の笑いに他者を追随させることを通じて、その場を統御する能力」である。
「笑い」という語を「意見」に置き換えれば、これはそのまま政治にあてはまる。
そして、たしかに政治家に要求されているのは「意見」のコンテンツの整合性や妥当性ではなく、それに追随する人間たちが場の過半を占めるという事実なのである。
私はテレビをほとんど見ない人間であるが、先般ヴァラエティ番組というものをたまたま見る機会があり、その成り立ち方の「異常さ」につよい興味を引かれた。
そこにはお笑い芸人たちだけが十数名集められており、全員が誰が先に笑いを取り、誰がそれに追随し、誰が割り込み、誰が「受けない」ギャグを査定し、誰が笑いの「割り前」を分配するか・・・という「パワーゲーム」に熱中していたからである。
「笑い」はほとんどヒッチコック的な「マクガフィン」となっていた。
芸人たちはそれを奪い合う。
けれども、一人でそれを占有することは許されない。
トラヴェリングの反則をとられるのだ。
だから「笑い」はパスしなければならない。
けれども、番組を見ていると彼らは「自分に必ずリターンパスを返す人間」にしかパスしない。
見ていると、「つねにパスの起点にあり、全員にリターンパスを要求する芸人」、「リターンパスをあわてて返す」芸人、「一回フェイクを入れてから返す芸人」、「自分が『パスされた』ことに気づかないでトラヴェリングの反則を犯す芸人」、「誰からもパスをもらえない芸人」など、芸人たちはいくつかのパターンに分類され、そこに「芸風」の差別化と政治的序列が反映していることがわかる。
下位芸人は、最初は「上位芸人から送られたパスにただちにリターンパスを返す」ことだけを要求されている。
そのタイミングがよいと、上位芸人から「一回フェイクを入れてから返す」ことを許される。
さらに芸が進むと、「自分へのリターンパスを求めてパスを出す」ことまで許される。
吉本興業の芸人がこれだけテレビ画面に出てくる理由を「コスト」で説明する人がいるが、私は違うと思う。
おそらく、視聴者は吉本の芸人たちの「パワーゲーム」を眺めているのである。
政治家だと、その政界内部的ポジションは選挙や内閣改造まで変わらない。
イラチな視聴者はそんな長い時間待ってられないのである。
お笑い番組はうっかりすると15分以内くらいにポジションが変わる。
それまで上位芸人の次くらいのポジションにいて、定期的にパスをもらえていた芸人が、上位芸人の不意の気まぐれや、下位芸人の技が受けたせいで、まったくパスをもらえない状態になって、青ざめ、脂汗をかきだす。
おそらく視聴者はそれを愉しんでいるのだ。
芸人の世界の序列が厳しいのは、そのせいである。
序列が厳しいからこそ、「上位芸人の転落」は「美味しいネタ」になる。「上を喰う」芸には禁忌のスパイスが添加されるからである。
だから、お笑い芸人が政治家に転身するというのは、ある意味では「王道」なのである。
彼らはある種のパワーゲームについてはプロフェッショナルだからである。
私たちの時代に起きているのはおそらく「劇場の政治化」と「政治の劇場化」による二つの領域の接近である。
「政治の劇場化」については多くの人がこれを指摘しているが、「劇場の政治化」については語る人がすくないので、基礎ゼミでの発表を奇貨として、ここに記すのである。
--------