そのうち役に立つかも

2008-07-07 lundi

河合塾大阪校で講演。
予備校生たちをお相手に一席。
お題は「日本人はなぜ学ぶ意欲を失ったのか?」
せっかくの休日に私の講演を聴くためにわざわざご登校くださった奇特な予備校生たち200人を前に、どうやったら受験勉強が楽しく捗るかというお話をする。
あらゆる受験生は「なぜこんな勉強をしなくちゃいけないのか」という根源的懐疑につねにとらわれている。
当然ですね。
もちろん、受験勉強の必然性はわかっている。
それができないと大学に入れない。
いくつかの教科に現実の実用性があることもわかっている。
例えば、英語ができると英語話者に道を尋ねられたときに、「道を尋ねられた」ということがわかる。古文ができると埋蔵金の隠し場所を書いた古地図などを解読するときに有用である。
だが、必然性と実用性を理解しているだけでは、自分の知的パフォーマンスを向上させることはできない。
受験生としては、そういう外づけ的な理屈ではなく、内側から沸き立つような「勉強したい」という強い動機が欲しい。
教師たちはさまざまな仕方でこの動機づけを試みているが、なかなか成功しない。
それはやはり私たちがどこかで知的パフォーマンスを「努力と成果の相関」という非常にシンプルな枠組みでとらえているからであろう。
ほとんどの受験生は、n倍の時間勉強すれば成績もn倍になるというきわめてシンプルな一次方程式で努力と成果の相関をとらえようとている。
だが、経験的にはそれはまったく事実ではない。
勉強時間がふえると成績が上がるのは成績がきわめて低いときだけであり、そのあとは勉強時間と成績は相関しない。ある閾値を超えて(例えば一日15時間とか)勉強するとむしろ成績は下がる(したことないから想像だが)。成績が上がるより前に体を壊して寝込んでしまうであろう。
経験がそれを否定しているにもかかわらず、受験生たちは「努力と成果の相関」というスキームにこだわっている。
この機械論的な勉強のイメージそのものが、彼らが勉強する意欲を殺いでいるのである。
別に彼らが悪いわけではない。
昔からずっとそう思われてきたのだから、仕方がない。
「詰め込み勉強」という比喩そのものが「容器とそのコンテンツ」という、知の働きについてのイメージを固定化させている。
だが、これは知性の実相とは程遠い。
知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。
ぜんぜん違う。
容器の形態を変えることである。
変えるといっても「大きくする」わけではない(それだとまた一次方程式的思考である)。
そうではなくて、容器の機能を高度化するのである。
問題なのは「情報」の増量ではなく、「情報化」プロセスの高度化なのである。
これまで何度も書いていることだが、情報と情報化は違う。
喩えて言えば、「情報」を「大福」とすると、「情報化」というのは小豆や砂糖やもち米から「大福を作り出す工程」のことである。
「情報」を重視する人々は「X 日までに大福を X 個、原価 X 円で納品する」というようなことに熱中する。
彼らが興味をもつのは、「納期」や「個数」や「コスト」や「粗利」や「競合商品との価額の差」などである。
要するに数値である。
それに対して、情報化というのは「なまものから製品を作り出すダイナミックな工程」である。
情報化にかかわる人々の関心はつねに「具体的なもの」に向かう。
小豆が品薄ならソラマメはどうか、もち米がなければ橡の実ではどうか、石油の代わりに薪で焚いたらどうか、プラスチックで梱包しないで竹の葉でくるむことはできぬか。
そういう具体的な「モノ」をあれこれといじくりまわしながら、モノのそれまで気づかれなかった潜在可能性を掘り起こしてゆくのが「情報化」する人の構えである。
情報化する人がかかわるのは「未だ数値化されていないもの」である。
情報化する人の口癖は

Ça peut toujours servir

である。
レヴィ=ストロースがマトグロッソのインディオたちの生きる構えを評して述べた言葉だが、訳して言えば、「これ、そのうち何かの役に立つんじゃないかな」である。
「これ」が何に役立つのか、それは今はわからない。
というのは「これ」が蔵している潜在可能性を考量する度量衡を「私」はまだ有していないからである。
そのうち、ある状況において「こんなかたちの、こんな材質の、こんな化学的特性の」ものがジャストフィットするような「欠落」に出会うことがある。
なんだか、そういう気がする。
だから、とりあえず「合切袋」に放り込んでおく。
石原裕次郎の『太平洋ひとりぼっち』という映画に印象深い場面があった。
マーメイド号に乗り込んだとき、堀江青年は床に落ちていた小さな板切れを海に棄てようとして、思いとどまる。
なにか、そのうち役に立ちそうな気がしたからである。
しばらくしてヨットは嵐に襲われる。
船室の船窓のガラスが破れ、そこから海水が浸入してくる。
堀江青年は片手で穴を抑えながら、片手で必死にあたりを探る。
すると板の切れ端に手がかかる。
それを窓にあてがって釘でばんばん打ちつけると浸水は止まった。
この板切れを棄てようとしたときに、「これ、そのうち何かの役に立つんじゃないかな」という思いがふと胸に浮かんだことで、堀江青年は危機を回避することができた。
もしかしたら、この一枚の板が彼の生死の分かれ目だったかもしれない。
というエピソードを映画で見たのが今から45年ほど前の話で、そのときに「このエピソードはなんだかきわめて重要な教訓を含んでいるように思うが、今の僕にはそれがどういう教訓かわからないので、とりあえず記憶しておこう・・・そのうち何かの役に立つかもしれないし」と小学生の私は思ったのである。
そのまま映画のことを忘れて半世紀近くたって、つい今しがたこのエピソードを思い出したのである。
「これ」は 45 年経ってようやく「役に立つ」状況に遭遇したわけである。
「そのうち」というのはこれくらいの時間の幅を含むのである。
閑話休題。
というわけで、「情報化する人」というのは、そういうふうに出会うすべてのものを「そのうち何かの役に立つかもしれない」と脳内にどんどん溜め込んでゆくのである。
不思議なもので「これは絶対に覚えておかなくてはならない」ことを記憶するにはけっこうな手間ひまがかかるのであるが、「そのうち何かの役に立つかもしれない(し、何の役にも立たないかもしれない)」ことを記憶するには何の努力も要さない。
だって、ことの定義上、そこで記憶されるのは、それを忘れたとしても、忘れたことさえ忘れられるようなことだからである。
だから、「そのうち役に立つかも」と思っているものは脳内にいつのまにか溜まってゆく。
それこそボルヘスの「バベルの図書館」的なスケールで増殖してゆく。
ところが、その有用性や実利性が熟知されている「これは絶対覚えておかなくてはならない」ことはなぜかさっぱり脳内にとどまってくれないのである。
まさに、その有用性や実利性が熟知されているがゆえに、「これはいったい何の役に立つのだろう?」という問いのセンサーが、そういう情報についてはまったく作動しないからである。
だって、もともと有用であることがわかっており、世間の人々も「有用である、価値がある」と太鼓判を押しているのである。
なにが悲しくて自力で、それに「こんなふうにも使えます!」というような用途を探してあげる必要があろうか。
デスクトップパソコンは「漬物石代わりにも使える」というようなことをアナウンスしても、誰もほめてくれない。
しかし、知性のパフォーマンスが爆発的に向上するのは、「その有用性が理解できないものについて、これまで誰も気づかなかった、それが蔵している潜在的な有用性」を見出そうとして作動するときなのである。
自分が何を探しているのかわからないときに、自分が要るものを探し出す能力。それが知的パフォーマンスの最高の様態である。
あらかじめリストにあるものを探すなら誰でもできる。
自分が何を必要としているのか判らないときに、「これ」が役に立つと判定できるのは、自分の存在のかたちをそのとき書き換えたからである。
思い出して欲しい。「何か窓を塞ぐもの!」という命がけの要請が切迫したときに、堀江青年の指先が捜し求めていたものは、様態も材質もほとんど未定のものであった。
考えてみれば、空き缶でもよかったし、枕でもよかったし、マンガ雑誌だってよかったのである(一時しのぎにはなる)。
発想を転換すれば、救命ボートでも、沿岸警備隊を呼び出す無線の受話器でもよかった。
もしかしたら、聖書や阿弥陀如来像が求めていた当のものであったかもしれない。
片手が阿弥陀如来像をつかんだその刹那に、「ああ、浄土からのお迎えが来た」と信じて、至福のうちに溺死するということだってあったかもしれない。
それが「間違った選択だった」と言う権利は誰にもない。
「これはそのうち何かの役に立つかもしれない」というのは、「これ」の側の問題ではなく、実は「私」の側の問題なのである。
「これ」の潜在可能性が発見されたのは、「私」の世界の見方が変わったからである。
「私」が変化しない限り、その潜在可能性が発見されないような仕方で「私」の前に隠されつつ顕示されているもの。
それをとりあえず「ほい」と合切袋に放り込むこと。
それを「学び」というのである。
おわかりいただけたであろうか受験生諸君。
健闘を祈る。
--------