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ほんとは休みの日のはずなのに

水曜はほんとうはオフなのだが、四月の最初の三週間だけ、斉藤先生との「音楽から始まる知との対話」(すごいタイトル)のリレー漫談があるので、午後から出講。
14時にPHP出版の編集者が来る。
月刊誌への連載依頼。
むろん、断る。
わざわざ東京からおみやげをもて来てくれたのに、用事は名刺交換後5秒で終わる。
あまりに気の毒なので、しばらく世間話をする。
新規の連載はすべてお断りしている。
共同通信と日経の連載が終わったので、肩の荷が下りてほっとしているところである。
今残っているのはAERAの隔週エッセイ600字、讀賣新聞の「うほほいシネクラブ」(月一)、毎日新聞の「水脈」(これは三月に一度)、『ダイヤモンドマネー』の隔月エッセイ。
いちばん大変なのが『考える人』の「日本の身体」シリーズ。
これは各界の身体技法の達人たちを相手に私が「徹子の部屋」をやるという享楽的な趣向のものなのであるが、なにしろ私はフルタイムの管理職サラリーマンであり、先方もまたたいへんお忙しい方ばかりなので、日程の調整に毎回苦しむのである。
新規連載を容れる余地はない。
「毎日ブログにあれだけ書いているんですから、その分をちょっと・・・」というようなことを言われるが、ブログは「字数制限なし」「テーマ制限なし」「オチなし(もあり)」「使用禁止用語なし」というたいへん自由度の高い、いわば私にとっての「落書き帳」であり、好き放題書ける代わりに、とてもこのまま世間に商品としてお出しできるようなクオリティのものではない。
原稿料を取っているものについては、もうちょっと「推敲」とか、そういう手だてを講じているのである(ほんとよ)。
続いて江さんと今日のゲストの山納洋さん(大阪21世紀協会)がご挨拶に見える。
やや、どうも。
そこに次のお客である法務省は公安調査庁の人が来る。
公安といっても別に私が「暴力主義的破壊活動を企てる団体」の関係者であると思われたわけではない(多田塾甲南合気会や甲南麻雀連盟や極楽スキーの会は誰が見ても「そういう団体」には見えない)。
そうではなくて、中国の統治システムについての意見を聞きに来られたのである。
私は中国問題の専門家でもなんでもなく、新聞記事をとばし読みして、ヨタ話を書いているだけである旨を申し上げるが、先方は中国経済の今後の動向やチベット問題の解決可能性、さらには国境問題などについて子細に意見を徴されるので、つい調子に乗って「それはですね・・・」などと長広舌をふるってしまう。
先般は既報の通り、内閣情報調査室から教育問題についてご下問があった。
担当者は『下流志向』を読んで、その内容をまとめて当時の総理大臣に報告書を出したそうである。
たぶん安倍さんはそのレポートを読んでいないと思う(読んだからどうなるというものでもないが)。
どうして私のような市井のシロート学者のところに日本のインテリジェンス関係の方々がおいでになるのかよくわからない。
察するに、それだけ日本のインテリジェンス業界が「人材難」だということなのかもしれない。
それならわかる。
情報「収集」と情報「評価」は別の仕事である。
情報収集は「自分が知っていること」を実定的に積み上げてゆく仕事である。
情報評価とは「自分は何を見落とすように構造化されているか」という、「情報化」プロセスそのものが内在させている不調(平たく言えば「自分のバカさ加減」)についての考察のことである。
現代日本の政治学者や外交専門家の中に、この「おのれのバカ度の点検」に一定の知的リソースを投じている人はきわめて少ない(ほとんどいない)。
知識人たち(およびウッドービー知識人たち)は自分がいかに物知りであり、他人が自分の知っていることを知らないかをショウ・オフすることにはたいへん熱心である。
そして、そのせいで構造的に情報評価上の禁則を犯してしまう。
多くの人が勘違いしているけれど、情報とは「モノ」ではない(それはヒッチコックの言うところの「マクガフィン」にすぎない)。
情報とは「情報化プロセスそのものについての批評性」が現に活発に機能しているという「事況」のことである。
ともあれ、インテリジェンス業界の人材確保もこれからたいへんそうである。がんばってくださいね。
続いて斎藤先生との音楽漫談。
エラ・フィッツジェラルドの『サマータイム』と斎藤先生の『サマータイム』の聞き比べから始まって、石黒晶先生の『音の虹が降りてくる~U・A・E・I』のDVD鑑賞(石黒先生の指揮で、斎藤先生と私がデュエットしている)、それから仏教の声明、モンゴルのホーミー、ブルガリアの女声合唱曲などの音源を聴いて、倍音について考察。さらに、「拍を割る」という身体感覚の実例をハル・ブレインのドラミング(Topsy 65)でお感じいただき、締めはかの「レッキング・クルー」がどれほど多くのセッションに参加していたのかの証拠に、サイモン&ガーファンクルのSound of silence を聴く。
「デケデケデケ」と絡みつくような「おかず」がハル・ブレインのシグナチャーである。
というような話をしているうちに時間となる。
毎回、授業のあとに何人かの学生たちが「さっき聴かせてくれた音源のタイトルを教えてください」と訊きに来る。
今回質問があったのはビリー・ホリディLady sings the blues
とジェームス・テイラーのHandy Manとブルガリアの女声合唱。
なかなかツボを抑えた選曲である。
斉藤先生、石黒先生とお別れしてから、再び江さん、山納さんと合流して、西宮北口の並木屋へ。
ゲスト講師のギャラがあまりに些少なので、お詫びのしるしにご接待申し上げてその労に報いるのである。
並木屋のカウンターで旬のお魚をぱくぱく食べながら、江さんの熱い語りに耳を傾けているうちにしんしんと夜は更けてゆくのであった。

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コメント (63)

茶々 [TypeKey Profile Page]:

最終回(完全版#4)『愚よ愚よ汝をイカに戦記』by 茶々 (あらかじめご注意申し上げておきますが、ここは本当に危険ですので、しばらくの間、私以外の方は書き込みをしないでください。その理由を知りたい方は、宮崎駿のコミック版『風の谷のナウシカ』第7巻をどうぞ!)

#1

え? もう終わりかよ。うん。あんだけ引っぱっといて、ナンダヨー。まっ、最終回ですべての謎が解けますからご安心を... ふふふ。ところで、最終回のお楽しみの「答え」は、『わかりません』でした。えええええええええ! 何それぇ?!  いわゆる「ひっかけ問題」ってやつですね。『すみません』でした。つまりー、

すでに啓蒙されている虚偽意識であるシニシズムには、説得という「知」による教化は不可能なんです。なぜなら虚偽(嘘)だとわかっていて、わざとやっているのがシニシズムだからです。「そんなことはわかっていてやっているんだよ」っていうのが「I.H」さんのポリシーなんですね。だから主観的には「I.H」さんには「知らないことはない」。なぜなら全部「わかっていて、計算の上でやっている」ことだからです。たとえ不意を討たれるようにして未知に出会ったとしても、「I.H」さんは事後的に必ず「そんなことは知っていたよ。わかっていてわざとやっていたんだ」と負け惜しみを言うのです。未知は許せないのですね。それが自分の設計、計画、計略にないからであり、「I.H」さんは、自分の行動を全てコントールして、知っててすべてわかっていてやりたいことだからです。つまりもう十分人生に裏切られていて、これ以上予想外のマイナス情報に傷つきたくないっていうのが「I.H」さんの偽らざる本音であり、人生において想定外のことに出会うと、そんなことは最初から知っていたよと「事後的に」虚偽の予防線を張ることで、自分は安全であると思い込みたいのです。なぜなら自分の支配が及んでいるところは安全であり、それゆえ「支配欲」の頑さの固まりになるのです。

原理原則というものから演繹的に、また既知の情報から帰納的にすべての真理という英知を引き出して、世界を隅々まで自分の知の支配の及んだ「想像的世界」を構築しようとする一種のマッドサイエンティストになってしまっている「I.H」さんは、オリジナルである主体(=No.1である存在)であり続けようと常に先手を取ろうとすることで、かえって後手後手を踏み続けることになるのですが、たとえそうだとしても、すべてを知っていると想定された訓導すべき〈師〉であることが理想我である主体にとっては、主観的には先手を取られることがあってはならないのです。ですから、たとえ先手を取られて「しまった」と思っても必ず、そんなことはわかっていたよ、とその先行するテクストを反駁し解体し、他者の先行性を無化しようとするのです。そしてその負け(=後背性)を認めようとしない頑さが、つまり頭のネジがゆるまないようにゆるまないようにと、原理的・原則的に締め付け過ぎることが、逆に「I.H」さんの知性から「遊び(=グルーチョ・マルクス的な自虐的諧謔を可能にする自我よりももう一段メタな視点)」というものを奪ってしまい、結果的に「I.H」さんから創造性(=オリジナリティ=先行性)を欠落させてしまうことになるのです。批判に拘泥する二次的知性(リアクション)と、創造してゆく一次的知性(ファースト・アクション)の違いです。

つまるところ「I.H」さんは、未知をひたすら既知に還元しようとする双数的母子鏡像関係にあって、先に教えてもらいながら、相手をしてもらいながら、あやしてもらいながら、おっぱいをもらいながら、テクストを生産してもらいながら、考えるヒントを提示して貰いながら、それを受けてそれを解体しそれを批判しそれを脱構築し、尚かつ No.1である男性性(=ファルス)の示威を行おうとしているということなのです。基本的に母子双数関係にある鏡像段階の〈男の子〉のファルスは「皮被りのファルス」です。つまり「I.H」さんのテクストの批判性(=攻撃性)は、「短小包茎」をおったてたガキ(餓鬼)同然であり、それ故たとえ想像界の〈母〉にそのテクストのヴォイスが届いたとしても、現実界の〈他者〉には届かず、それで満たされない、受け止めてもらえない欲望を抱えたままの欲求不満の塊になってしまうというわけなのです。「I.H」さんが想像界の住人であるが故に、現実界を支配する大人の男性の前では塩らしくならざるを得ず、未だ外の現実界(外気)に曝されていない弱い皮膚をもつ〈子供〉の「皮被りのファルス」の持ち主である「I.H」さんが攻撃的になれるのは、実に想像界の住人である「弱きもの」「女性的なもの」の前だけなのです。本質的に内弁慶なのですね。それが、ネット界の想像界的なヴァーチャルな空間では全能感を誇る帝王気取りでいられても、現実界では実名の暴露を恐れる「I.H」さんの打たれ弱さの原因ともなっているのです。『女子と小人は養い難し』という言葉や「女子供」という言葉があるように、〈子供〉とは本来〈女性〉的な存在です。鏡像段階的双数関係にある者は、基本的に「体面=対面」を非常に気にします。「体面」とはまさしく鏡像的双数関係にある相対的存在の二者の間の境界線、すなわち鏡像を写し出す鏡面そのものだからです。両者の領域・テリトリーの境界面である「体面」こそが、自己の想像的イメージの死守すべき国境線(=支配権の及ぶところの監視の視線の地平線)にあたるのです。

#2

我らが老師がいつもおっしゃっておられるように、「謎」を追うものは必ず〈弟子〉=〈子供〉の立ち位置(=ビハインド・敗勢)に嵌ることになります。しかしながら、『述べて作らず』という〈弟子〉の〈師〉への正しい態度・位置取り・敬意を示せない者は、本質的に後追いの敗勢にありながら、すべてを知っていると想定された〈師〉の立ち位置を先取しようとします。テクストを産出してもらいながら、情報を教えてもらいながら、それに寄りかかりかつ甘えながら、それでも決してその敗北(後背性)を認めようとはしないのです。それを認めると、理想我であるところの「すべてを知っていると想定された〈師〉」としての自我構造(=万能感・全能感)を断念しなければならないからです。それまでの甘い母子双数関係性の揺り籠の中で培われて来た、自分の弱い想像界的自我を構成している全努力の積み重ねのすべて失ってしまう恐れを抱くからです。本当は古い殻を捨てなければ、新しいステージでの成長もまたありえないのですが、三者的な象徴段階への「命がけの跳躍」が「I.H」さんにとってはとても怖いらしいのです。外の世界の現実にもう十分過ぎるくらい十二分に傷ついているからでしょうか。皮を被ったままの〈子供〉のファルスが外気に曝されるときの〈他者〉の視線の「冷ややかさ」に耐えられないからでしょうか。齢六十になんなんとする「I.H」さんが、想像界的な甘い世界でのみ十全な発現を許された万能の自我を夢み過ぎたからでしょうか。甘えん坊の「マザコン」(おかあさんっ子)であり、「シスコン」(おねえさんっ子)だからでしょうか。

それはともかく、「I.H」さんは規範的であろうとし過ぎたせいで、つまり頭のネジを締め付け過ぎたせいで、かえってネジが切れてゆるんで、それでテクストの捻りが1/4回転になってしまい意味の取れないテクストを大量生産することになりました。「I.H」さんにとっては十分捻りを利かせた味の有る文章のつもりなのですが、たぶん本人以外には誰もその諧謔性が理解出来ない。何処がどう面白いのか〈他者〉にとってはさっぱりわからないのです。もともと自我の中に〈他者〉がいないから、そこには主観性だけがあって客観性がないからです。一方「うっかり系」の人は文章を捻り過ぎて、一回転して元へ戻ってしまっているのですが(いまどきエイプリル・フールなんか生真面目にやるかよー。そーゆーところが「うっかり」なんだよな。ったく)、捻りというものはちょうど「真半分」が両義的であり、「判じ絵」と同じく、老婆にも若い女にも、アヒルにもウサギにも、どっちにも見えるものなのです。ひとによっては、そこに自分の見たいものを見ることが出来る。鏡像的想像界にいる者は結局すべてそういうものなのです。母子関係性の幸福な揺り籠もそうですし、アイドルとファンの関係性もまたそうです。恋愛初期の恋人同士もまたそうであり、両者ともが互いに自分が見たいものを相手の中に見る。つまり「判じ絵」を見るものは、もう「見るな」の禁制を破っているのです。ひたすら知的でありたいと思うものは、すべてその「罠」にはまります。パラドックスとは論理的な「判じ絵」です。

鏡像段階に在る者の秘密を知りたければ、両義的な問題を投げかけてカマをかけさえすれば必ず見たいものを、本人がそう思いたいものをそこに見い出すことが出来ます。こっちが「謎」をかけると、本人が知っていることを先にしゃべってしまうのです。それは本人のアイデンティティであるところの「主体性」が「すべてを知っていて、すべてをコントロールしている主体」であり、自分の行動はあらかじめわかってやっていたこと、すべて想定内のことのはずだからです。こっちが知りたいことを知っている振りをして、思わせぶりに「問い」を投げかけるだけで、「そんなことは知っていたよ」と、ぽろっと自ら告白してしまうのですね。「I.H」さんにしてみれば、規範的に全てを知っていてやったことでなければならないので、本人自身でさえ知らなかったことを、つまり自分の無意識の世界のことを、本人が一番隠しておきたかった個人の秘密まで、結果的にべらべらと人前に暴露しまうことになるのです。あらかじめ「自分は知っていた」ということを、顕示しなくてはならないからです。つまりゲロ吐いてしまうのですね(うっ、トラウマ体験が... )。両義的な曖昧な問いというものは、双数的鏡像段階にある者にとっての「鏡」となり、相手の姿を映してしまうものなのです。両義的な問いで我々が鏡に映し出そうとするものは相手の真の姿であり、その鏡に映っている虚像とは、「I.H」さんは知っているけれど我々が知らなかったことです。この場合は、我々が知りたかったのは相手の本名(これは「I.H」さんは知っていたことですが、我々が知らなかったこと、「I.H」さんが我々には隠しておきたかったこと)です。一方で我々は「I.H」さんを過去時制の捕囚にしているトラウマや魂の真実を知っていますが、これは「I.H」さんが意識的には「知らない」ことであり、また「知りたくない」ことです。

ではなぜそんなにも簡単に、「I.H」さんは我々の投げかける「問い」に引っかかってしまうのか。それは「I.H」さんの「理想我」が全てを知っていると想定された主体だからです。先の先をとろうとして、事後的に後手後手を踏み続ける。「I.H」さんが本質的に、わかっていること(先行して投げかけられている既存の枠組みである謎や物語というコンテクスト・文脈)の後追いしか出来ないからです。一般に普通の人は、自分自身の内面の真理や無意識の真実、あるいは魂の秘密を、つまり自分の行動の本当の動機を内省という形で「知る」ことが出来ます。反省とか自制とか自省という形でです。それが成熟した大人のあり方であることは、言うまでもないことですが、しかしながら、自我を隔壁で多重人格という〈仮称〉(=仮の二次的構築物・ヴァーチャルな存在)に分割している「I.H」さんにはそれが出来ない。深刻な(貴重な)経験が体験にならないでいるから、「人格」という形で統合された自分史に登録されないでいるのです。それで「I.H」さんの秘密は「I.H」さんの記憶や心の中ではなく、「I.H」さんの書くテクスト、「I.H」さんが創造し自分を仮託したキャラ(二次的パーソナリティ)というアヴァターが演じるところの、自作自演の登場人物の台詞の中に文字通りスクリプトという形で現れるのです。驚きに出会ったら素直に驚き、未知を既存のフレームワークの中の既知に回収せず、驚きを驚きのままにしておく「センス・オブ・ワンダー」があれば、こんなことにはならずに済んだのですが、あらゆるキャラを思い通りに動かすシナリオ・ライター兼演出家であろうとしている「I.H」さんにしてみれば、すべてを知っていると想定された主体、すなわち全知全能の神に自身を準えているのですから、神秘というものがこの世から消えてしまって、現実というものに退屈してこんなことにしか熱中出来ないのも当然と言えば当然です。お可哀想ですね。哀れむべき悲しい獣です。

#3

2008年04月07日エントリーの『原則的であることについて』で、〈師〉と想定された主体から直接かまってもらえると思ったときの、この「I.H」さんの小躍りするようなコメント(2008年04月07日19:39に投稿されたコメント)をよく見て下さい。まるで母親から「おっぱいの時間ですよー」と言われた幼児のような有り様が、手に取るように伝わって来て、貴重なフィールドワークの研究資料になっています。また〈娘〉としてのメス鳥が待てど暮らせど現れなかった時の、いやそもそもが片思いのお相手がこの世に存在しなかったのですから、いわば〈子供〉が自己を主張し、ファルスを顕示して、反論して解体すべきテクストを与えてくれる〈娘〉あるいは〈姉〉の「(セックスとしての)おっぱい」の時間が永遠に来ないのですから、〈子供〉は益々むずかり、暴れ、だだをこねて、泣き叫ぶという形でしか、つまり解体された言語、声にならない声、意味を周りに深読みしてもらうしか聞き届けられないぶーぶーという豚のパロールでしか、コンタクト交話を語れないでいるのも当然なのです。学習者、研究者の方はよーく見ておいて下さいね。「I.H」さんの十八番の「党内抵抗勢力」を作っての自作自演、意味のない、歴史として統合されない断片的な記憶や言葉の垂れ流しのエクリチュールの量産の数々を。

双数的鏡像関係にある者がもたらす、あるいは想像段階にある者にふりかかる悪とは、いわゆる経済学的用語で言うところの「合成の誤謬」ってやつなのです。ケインズの「美人コンテストの投票原理」と一緒で、それが「猫の手を万力で締め付けるような邪悪なもの」(@村上春樹)の正体です。〈父〉なき双数的関係にある〈母子〉の、お互いに相手を受容し相手に主体性(決定権・善悪の判断)を譲ろうとする、合わせ鏡の迷宮に捕われた甘い母子関係性の揺り籠の中にある二者にとっての地獄とは、実にそういったものなのです。内田先生が人に対してなるべくフレンドリーでありたいがため、執筆依頼を断れずに捌き切れない程の仕事を抱えて、結果的に自分の首を絞めることになるのも「合成の誤謬」です。お互いに相手に良かれと思って為すことが、ある臨界点を超えて合成されると善意が邪悪なものにかわってしまうのです。「I.H」さんの場合でいえば、ひとつひとつのキャラやアヴァターのコメントはまともであったとしても、それが合成されるとある邪悪な意志を構成しているということです。これが想像界の罠です。お互いに主体性(=責任を引き受ける者・責任主体)を譲り合っていては事態は先に進まないということです。経済学で言うところの、いわゆる「ホット・ポテト(蒸しあがったばかりの熱々のジャガイモ)」をババ抜きみたいにお互いの間でキャッチボールしているということです。内田先生の場合は「アンチ・フレンドリネス」という名のホット・ポテトを、「I.H」さんの場合は「悪」ないしは「罪」というホット・ポテトを。ですから、ここは〈父〉なるものの干渉による母子関係性の紐帯の切断、すなわち「去勢」がなされなければ、〈母子〉ともに両者共倒れに終わります。「エディプス的切断」が行われないと、〈子供〉が一個の人格的姿であるところの真の人間的主体となれずに発育不全・形成不全にとどまってしまい、いわゆる「胞状奇胎」に陥るのです。まさにどれも独り立ち出来ない多重人格のキャラたちの葡萄の房のような塊ですね。おそろしい化け物のような醜い獣です。もうそれは人間と呼べるような代物ではありません。ちなみに母にとって異物である胎児と癌細胞はともに同じ仕組みで、母体の免疫による異物排除の攻撃のメカニズムを逃れているのだそうです。いつまでも〈子供〉であり続けたいと相手の善意に甘え、〈母〉の生産するテクスト(乳房)に取りすがり続ける者は、癌細胞と一緒です。

「I.H」さん自身は、自分は無限の可能性を蔵していて、それを育ててくれる人がいたら、自分のいうことに耳を傾け、自分にかまってくれる人がいたなら、自分の可能性は十全な創造性として開花するはずだと、いつもそう思っています。一度自分が本気になったら、なんでもどんなことでも出来ると思いながら、結局どれも中途で投げだして何一つ満足に完成させることのないままで終わっているのですが、他人には常に前段の同意を求めているのです。「準備中」の看板や少しも実行されない素晴らしい計画案ばかりを量産し続けて、ついに一生のうちでなんの専門性も持ち得ず、なんら社会的な有為性を発揮しないままで人生を終わってしまうことになるのですが、「I.H」さんにしてみれば、創造的であろうとして、成熟した一個の独立した社会人や生活人でありたいと願望しながら、つねに自分を庇護し保護してくれる〈母〉なるものを、そこに自分が見たいと思う「本当の自分」を映し出してくれる「己惚れ鏡」としての〈他我〉を、実際には求め続けているのです。現実に裏切られ続けているにもかかわらず、いやそれだからこそ、せめて自己の想像的世界の中では、すべてを知っていると想定された理想我でありたいと思っているからです。六十歳になんなんとして未だ「エディプス的切断」を拒否している甘えん坊の〈子供〉の立ち位置を選択し続けているわけですから、つまり「成熟」を拒否しているのですから、成長が止まり、未熟のまま人生が暮れようとしているのも当然と言えば当然ですね。だからそのファルス(攻撃性)も皮(保護皮膜=緩衝材)を被ったままであり、真の批判性に達しないから、実社会への影響力もまたないのです。

トラウマ的体験を克服するためには、それは過去に起きたことであり、あなたはもうそれを現実に克服して今現在生き延びているのだから、もうそれ(=トラウマ体験)はあなたの脅威にはなりえないのだと、そうはっきりと告げることだけです。つまり事実を事実として素直に認めれば済むことなのに、それ(=トラウマ体験)をあれこれと理屈をこねて解釈し和らげようとするから、かえって常にそれが脅威であった(つまり和らげる必要性のあった)過去に縛りつけられ、繰り返し過去に舞い戻ってしまうのです。悲劇的ですね。お可哀想です。知的であり過ぎるのも考えものであり、『過ぎたるは及ばざるが如し』を地で行く、知を病んで「やまいだれ」の方の「痴的」になってしまった「I.H」さんでした。言うも愚かです。

#4

真に利口になるためには、つまりブレイクスルーによって殻をやぶり飛躍するために必要な言葉は、内田先生がいつもおっしゃっておられるように、「わかりません」と「すみません」です。よく覚えておいてくださいね。これが素直に口からついて出るようになれば、あなたの知は飛躍的に亢進するでしょう。ぜひ「I.H」さんにも教えてあげたいところですが、といっても説得は不可能なので、「おしりぺんぺん」ということになります。つまり「泣きをみる」ことになるわけです。あーあ。だからやめろって言ったのに。と言うよりも、止めろと言われることを「I.H」さんはしてしまうのです。「見るな」の禁忌ですね。『目に美しく、食べるによく、賢くなるに好ましい』と思うこと、すなわち知者であろうとすることとは、常にそういったものなのです。知的であろうとすること、知識を得て、知恵を得て、「あらかじめわかっておこう」とするものは、必ず「見るな」(=禁断の木の実を食べるな)の禁制を破ってしまうのです。ですから「それ」(=「なぜか」という問いかけ・謎かけ)が知者への罠であり、投げ込む餌になるのです。つまり「するな」っていう否定形の言葉が囚われの元になるのですね。つまり反論の必要性が、テクストへの批判性が、攻撃的な言葉が、脱構築の意志が「I.H」さんをして双数的鏡像関係の牢獄、合わせ鏡の無限連鎖の迷宮の中に閉じ込めてしまうことになるのです。

だから我々はこう言いましょう。「わかりません」と「すみません」です。つまり「わかりません」から「すみません」が、「教えてもらえないでしょうか」です。「問い」を「問い」のままに、「謎」を「謎」のままに素直に信じる者は救われるのです。信じる者は基本的に一者だからです。「問い」を解体し、「問い」を「謎」と「答え」に脱構築する者は、つまり知者であろうとする者は、基本的に二者です。なぜなら判るとは「分ける」ことだからです。未知を既知との双数関係に関係づけるのが、知性の働きだからです。しかし知の階段を一歩一歩、石橋を叩いて渡るようにして上ることでは人間は決して天国に入れません。「知的パラダイス」という意味合いを含めて全知全能の神なる主のおられる天国に入る為には、子供のように無邪気に信じるほかないのです。なぜなら素直に信じる者は神と一緒(複素体)であり、疑う者(反論する者)は悪魔と道づれ(対話・対論をがーがー交わしながらの道行きの二者)なのです。神が隠れるのは善行をなす善男善女に善を帰する為です。悪魔が隠れるのは自分に迷惑がかかるからであり、悪行の不名誉を自分に帰さない為、自分の悪から善なる自分を守ろうとするからです。これを信じることの出来る者には全知全能の神からの祝福があるでしょう。知的面においても『弱き者は幸いかな』ですが、「I.H」さんにしてみれば、どうしても受け入れることの出来ないソリューションでしょうか。本当にお可哀想です。

さて、このブログのアーカイブにあるエントリー記事とそのコメント欄にあるコメントの時系列をよーく観察して下さい。どれが本当の善か、つまり悪を含んではいるがその悪を善が凌駕しているほんとうの善{(善=善(手段)>悪(動機)}か。またどれとどれが単なる二元論的・二項対立的な、定型的な善悪二分論の善{ 悪=悪(手段)/善(目的)}か。つまり善は、悪意から始まったとしても善で終わることはあるが、悪は善意を分母として始まっても結局悪で終わるのです。本当の善とは善と悪との複素体、つまり善が悪をコントロールしている状態、図式的に表すと「善」=(善>悪)になるものです。ちょうど人間進化のある段階で、大脳皮質がそれよりも古い原始的な暴力的感情的野性的な脳を、覆い包み込むようにして発達して来たのと一緒です。どんな悪にも悪自体を生きさせている生命力という名の善性が必ず含まれています。ちょうど内田先生のブログに寄生することなしには、「I.H」さんが悪態をつけなかったように、悪も善なくしては生きられないのです。しかしながら悪は自己愛に狂っているからこそ、結局生命力という善性を利己愛という悪に消費してしまうのです。善と悪の二元論に陥っているからこそ、頭のネジを締め付け過ぎて、ひたすら自分の意識を善に純化するあまり、自己を素晴らしい独善であらしめようとして、逆に抑圧したもうひとつの方の純粋な悪に転落してしまうのです。世の原理主義者の方はよく覚えておいて下さいね。原理主義はなにも「まごころ原理主義」の「I.H」さんだけの話ではないのですから。

『悪とは善の欠如』というときの欠如している善とは、二元論的な完全分離した二項対立における善ではなくて、悪を含んである、つねに悪を置き去りにして悪を超えて凌駕し、悪を「遅れ」のうちに抜き去る再帰的な複素体として存在する「生命力の善性への指向性」のことです。静止的な評価的(世評的)善と動態的な意志としての善性の違いです。「止まっているもの」と「動いているもの」の違い、「閉じたもの」と「開いたもの」の違いです。関数とその導関数の違いと言ったらより分かりにくくなるでしょうか。それはともかく、「I.H」さんはあまりに完全であろうとして、結局他人の悪ばかりが目につく純粋主義、原理主義者に陥ってしまいました。他人の足らざる悪の部分を指摘して矯正しようとこだわるあまり、悪を追い越すことが、自分の悪を過去のものすることが出来なくなったのです。「I.H」さんのことで言えば「学歴」差別のことです。十五の春で泣いたことを克服しようとするあまり、そこにかえって釘付けにされる。トラウマ体験とはそういうものですが、中卒の方が単なる知的エリートよりも知的でありうることを証明しようとする原理主義者になってしまったがゆえに、逆説的に絶えず「十五の春の挫折体験」の悔しさ・切なさのフラッシュバックが起きるのです。一般に悪はどれも同じ顔をした悪ですが、善には大善と小善があります。そして真犯人はいつも意外な小市民的な善人面をしていたり、パリサイ人のような不機嫌で生真面目な道学者ぶっているものです。偽善者というものはそういったものです。「I.H」さんが正にそうでした。悪魔は一見善人面をしている人の背後に隠れているということです。もっとも本物の大サタンとなるとちょっと違いますから、油断してはいけませんよ。

weezer [TypeKey Profile Page]:

ハル・ブレインのプレイはいまどのアーティストのアルバムで聴けるのでしょうか?だいぶ前ですが、三宅純とコラボレーションしていたのがなんだかとても新鮮でした。

おすすめのアルバムがあればどなたか教えてください。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

2ちゃんねる 内田樹2 より

787 :イカフライ:2008/05/01(木) 20:08:25 0
最近、やっと内田樹が何者であるかわかってきたよ。
ずいぶん時間がかかった。
初めてこの洟垂れじいさんの文章に接したとき、その政治的・倫理的スタンスの複雑さに
こちらの受け取り方を決めかねて混乱した。
頭が突飛に良い曲者にありがちな(こいつは何者なんだ?)がここまで粘着した理由だったのかもしれない。
やっとわかったといっても、ちょっと頭の働くやつなら以前から指摘していたことが
わかったにすぎないのだが。
でも、自分でそれを実感することが大事だった。

内田樹というのは、たとえば乞食がいるとすると、みなさんあそこに乞食がいますよ。
あれは人間がダメだからああなったのです。気をつけましょうね、みなさん。
ということを声高に高尚な言葉でいう人だ。
そこに救いはない。たんに「ダメ人間」を選別し、宣告する機能の人だ。
ぶっちゃけ、弱者や劣等人間をみつけては馬鹿にし、罵倒するだけなのだが、その罵倒が、
高尚な哲学的雰囲気の言葉で行われる。
どうしてこの洟垂れじいさんがそんなことをしたがるのかは不明だが、
(たぶんなにかの精神的問題があるのだろう)
それだけのことだということがやっとわかってきた。

基本的にこのような洟垂れ先生の態度に惹かれるやつというのは既得権益の上に乗っかっていて、
それを思想的にも支えてもらいたがっているやつらだろう。
おれが内田樹を批判しだしたら、ぎゃーとばかりに大挙して噛み付いてきたわけだが、
さぞかし、背中に水でもかけられたとでも思ったことだろう。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

教えてやろう。
だれだって足を踏まれたら痛いんだ。
「痛い」と声をあげるんだ。

おれは洟垂れじいさん内田が平気で弱いやつの足を踏んで
平然としているかぎり、そのたびに必ず、声をあげるよ。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

内田は、弱いやつの足を踏んづけても相手が痛いと感じるとは思っていないようだ。
無能力なやつ、文化の劣った奴、弱いやつは痛覚がないとでも思っている。
だから、踏んづけられたら、だれだって「痛い!」と声をあげることを
あの洟垂れじいさんに教えてあげることにした。

内田はどういう神経か、たえず「ほら、これが乞食です」「こうなると
無能力者なんです」と人間弁別能力を働かせるのが趣味のようなこところがあり、
人をどんどん規定してゆく。分けてゆく。
そして、規定しつつ「ゴミ」を弁別する機能を働かせるよう、
「生徒」にも教え付けようとしている。

こういうことが見えてきたおれにしてみれば、「いま、おまえはおれの足を踏んだ。
踏まれたらだれだって痛いんだ」と声をあげることにした。
黙っていることは弱い人たちへの裏切りであり、
むしろ犯罪ですらある。

monimoni [TypeKey Profile Page]:

weezerさん、個人的には、ハル・ブレインのプレイはフィル・スペクターのボックスセットが一番堪能出来るんではないかと。もともとセッションミュージシャンの名前がレコードに堂々と掲載される時代のお方ではないし、仕事の量も半端じゃないので、思わぬところでハル・ブレインの演奏を聴く。または聴いていた。というのが楽しい聴き方かもしれません。実際、先ほど生後2ヶ月の長女をあやしながら聴いていたカーペンターズのCDも一曲だけ彼の名前がクレジットされていましたが、他の曲も彼が叩いているんじゃないかと思われてなりません。

イカフライさん、私は内田先生の本を読んで3年前に親の小さな店を継ぐ決心をした者です。ある地方都市のさして有名でもない商店街の片隅にあるのですが、ここ最近でやっと店内も明るくすることができ、この2~3ヶ月でテレビのニュースの取材を2回、ワイドショーの取材を1回受けるまでになりました。まあ、全てローカルですけど。
店を継ぐ前の自分は本当にぶらぶらしていました。こういう人生もありますよ。

ふれむで [TypeKey Profile Page]:

人生の中で、そういう人や本や絵や音楽にめぐり合いますよね。誰にお礼をいってよいのかなと思うくらい、ありがたく思える時ってありますよね。ですから、このブログを開く時の楽しい心というのは、(理解することを与えられている者)の楽しさなのですよね。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

内田は、弱いやつの足を踏んづけても相手が痛いと感じるとは思っていないようだ。
無能力なやつ、文化の劣った奴、弱いやつは痛覚がないとでも思っている。
だから、踏んづけられたら、だれだって「痛い!」と声をあげることを
あの洟垂れじいさんに教えてあげることにした。

内田はどういう神経か、たえず「ほら、これが乞食です」「こうなると
無能力者なんです」と人間弁別能力を働かせるのが趣味のようなこところがあり、
人をどんどん規定してゆく。分けてゆく。
そして、規定しつつ「ゴミ」を弁別する機能を働かせるよう、
「生徒」にも教えこもうとしている。

こういうことが見えてきたおれにしてみれば、「いま、おまえはおれの足を踏んだ。
踏まれたらだれだって痛いんだ」と弱者の側に立って声をあげることにした。
黙っていることは弱い人たちへの裏切りであり、
むしろ犯罪ですらある。
とおもうのだ。


イカフライ [TypeKey Profile Page]:

>知識人たち(およびウッドービー知識人たち)は自分がいかに物知りであり、他人が自分の知っていることを知らないかをショウ・オフすることにはたいへん熱心である。


↑洟垂れじいさん、それはおたくさんじゃありませんか?
よーく鏡をみてからおっしゃったほうがいいと思いますが。
はい。
お年をめされたせいか、さいきん、かなり呆けてきていらっしゃるようですよ。
不特定多数の他の批評家やコラムニストを批判することが多くなってらっしゃる。
そろそろご本も売れなくなっているようだし...。
弱者に対するいつくしみがなければいずれは飽きられますね。

たとえば以下のごとき発言もあたりまえのことを、おれはこれだけ知っているとショウ・オフしているんじゃ?
口の渇かぬうちにまあ、ひどいですなあ、洟垂れじいさんは。

情報「収集」と情報「評価」は別の仕事である。
情報収集は「自分が知っていること」を実定的に積み上げてゆく仕事である。
情報評価とは「自分は何を見落とすように構造化されているか」という、「情報化」プロセスそのものが内在させている不調(平たく言えば「自分のバカさ加減」)についての考察のことである。

↑あたりまえじゃないの、洟垂れさん。w

weezer [TypeKey Profile Page]:

monimoniさん
教えてくれてありがとうございます。amazonで調べたら、リーダーアルバムも出てるようですね。知らなかった。ジャケットが、ちょっとヤバい感じですけど…(笑)。
やっぱりセッションミュージシャンの渋い仕事っぷりを聴きたいかもしれません。

さあ、コメント欄にうんざりしている内田ブログファンの皆様。ここを正常化するのは皆様のまともな書き込みです。萎縮せずにコメントしましょうよ。もっといろんな人たちのコトバが読みたいのです。あなたもそうでしょう?

kankan [TypeKey Profile Page]:

イカフライ君

君を見ていると本当に哀れで可哀想になります。
何故なら、君が以前ひどいイジメに遭い、心が破壊してしまった人間に典型的な言動を取っているからです。
僕の周りにも君と同じ様な人間が何人かいます。

そのイジメはつらいものだったと想像します。
今思い出しても身をよじるほどのものだったでしょう。
みんなから嫌われ、差別され、ゴミのように扱われたのでしょう。
しかし、復讐をするなら、君をいじめてきた人間に対してすべきだ。
でもそれは怖いんだろう?だからこのように匿名で特定の人物を粘着的に攻撃するんだろ?
しかしそれは卑怯である。

君は愚劣で卑怯な人間だ。
だから全ての人から嫌われ、そしてイジメられるのだ。

そろそろ、人として、男として、恥かしい行為をお止めなさい。
卑怯な人生を送るのはお止めなさい。

みんなが不愉快になり、みんなが君を嫌っている。
ここでも嫌われ、イジメに遭ってどうするんだい?
全て君が招いていることじゃないか。

自分が変わらなきゃ、君の人生も変わらず、その不愉快な負け犬の人生を一生続けるだけだよ。
いい加減に変わりなさい。
な?

誤読しらず [TypeKey Profile Page]:

kankanさま、還暦がすぎたイカフライさんでも変われるんでしょうか? 生まれ変わるって意味ですか? 

たか [TypeKey Profile Page]:

『「狂い」の構造~人はいかにして狂っていくのか?~春日武彦/平山夢明の放談記録』を読んでなるほどと納得。完全に賛同はできませんが、p21、p58、p108などなど。
p58より引用。
春日「だから、俺なんか、人格障害のヤツなんかを扱ってても、治そうという気もないし、治るとも思ってないし。じゃあどうするかって、相手が年取るのを待つわけだから。その間をまあ、そんなに外さないでくれりゃいいやと思ってるんだけど」中略
春日「ま、生きるということは、いかに自己正当化を図っていくか、その工夫と実践の日々ですからね。」
 立ち読みで充分読めます。実例があるだけに勉強になりました。世の中には、こんな人がうようよ居るようです。「境界例」というようです。
 これにて研究室の研究発表を終わります。(参考文献だけ?) 

kyuden [TypeKey Profile Page]:

ずっと前に「おじさん的思考」を読んだ際に、「内面のない青年」という論考があったように思います。
あの文章を最初に読んだ際には、どうして内面のない青年の方が、内面を持っている青年よりも優れているのか、ということが腑に落ちない部分がありました。

それから何年か経過していろいろな人と関わりと持ってみて気づいたことは、「『内面のない青年』は自分の関心が『他者』に対して開かれているけれども、『内面のある青年』は、自分の関心が自分自身のことにのみ向けられている」ということでした。

「おじさん的思考」の201ページから202ページにかけて以下のような文章があります。

(引用開始)
 小野くんの内面は近代と前近代のあいだの格好の舞台である。小野くん一個人のうちに時代潮流のドラマがそのまま再演されている。小野くんの事例は、「内面」というものを想定すると、外の社会の実相を伝えるのにたいへん便利である、ということを証明している。
 甲野くんの内面は、小野くんの場合のような、社会的葛藤の反映ではない。「内面を持つこと」は甲野くんの生きる「原理」そのものである。現世から押し寄せる俗悪なるものをしりぞけ、神聖不可侵の「内面」を至純至誠のものとして保持しつづけることが甲野くんの生き方そのものである。
 美しい考え方だ。
 だが、そのような浮き世離れした思想は、親から受け継いだ財産をだらだら食い潰している高等遊民の頭脳にしか浮かばないのではないか、という懐疑は甲野くんの脳裏には兆さない。だから結局、甲野くんは宗近くんのご厚意に甘えて、徒食遊民の金主を亡き父から、気前のよい友人に移すだけなのである。
 甲野くんの事例は、青年が「内面」を生活の主たる場にしていると、現実生活への適応力が退化することを証明している。
(引用おわり)

イカフライさまのこれまで書かれたコメントを見る限り、「虞美人草」の登場人物である甲野くんのように、「内面」を生活の主たる場とし、自分の思考と感情を見つめすぎてしまったために、現実生活への適応力が退化してしまったのだろう、という印象を受けます。


この世界には、自分以外にその思考とその感情を類推することが出来ない「他者」が存在する。


これは内田先生が著書で一貫して書き続けたテーマでありますし、内田先生が文章を通して私たちに「贈り物」として手渡している概念でもあると思います。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

あ。若干誤解があるようですので、注を入れておきます。
わたしが内田大先生を「洟垂れ」じいさんと呼んだのは、べつに内田大先生が「洟(はな)」を垂らしているからではありません。
まさか、まさかそんなだいそれたことをいうものですか。

「洟」というのは、大先生の「弟子」を称する頭のネジのゆるんだ低脳たちのことです。w
その「洟」たちが垂れるがままに誹謗・中傷・脅迫を自由にコメント欄ですることを大先生が容認なされているから「洟垂れ」つまり自称「弟子」の洟を垂れ流しにされている「大先生」という意味でいったのです。

このところを読み違えないよに。
まさか、大先生を「洟垂れ」などと呼べば公安調査庁から、はては居合い道場の兵庫県警までを敵に回すことになりますばい。わはははのは。www

mash [TypeKey Profile Page]:

イカフライさん。
たいへん残念ながら、公安調査庁も、居合い道場の兵庫県警も、ここにコメントしている現実のみなさんも、誰もあなたを助ける(直接手を下す)ことはできません。
どこかの誰かが、あなたに「肉体を持ってコンタクトしてくれる機会」はありません。アクセス禁止にすらしてもらえないでしょう(内田さんも人が悪いなーとも思いますが、「肉体がない」ことに変わるせめてものもてなしかもしれません。)。
以前のボクのコメント(「伯母の葬儀」投稿者: mash | 2008年04月26日 01:37)にも書きましたように、この「無間地獄」から抜け出すには、「つらいだろうけど自分の意思で社会生活に戻る」しかないんです。ここから出て行くのではなく、「社会生活に戻る」のです。そのあと、またここでお会いしましょう。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

みなさん、なにか誤解をされているようですね。
わたしは内田さんを応援していたはずですよ。最初からちゃんと読んでください。
このコメント欄がおかしくなったのはaikagamiさんの意味不明な「おまえを処刑する」発言、「とんずらこくな」発言が発端でしょ。
内田さんはそのような異常な発言を黙認され、容認された。
さらにはaikagamiさんを支援するような内容の記事も書かれておられる。
わたしはそれでも再三、メールにて批判されるよう申し上げたがaikagamiさんら自称「内弟子」たちの頭のゆるんだような誹謗中傷はやまなかった。
それでわたしは相手をせざるをえなくなったのです。

あなたがたはどうしてわたしを批判するばかりで、誹謗中傷を平気でする人たちを放置容認するのか?
そんなことでわたしが話を聴くとでも思っているのでしょうか?
今一度、冷静に、自分がいかにトンマなことをわたしにいっているか、各人、考えてほしい。

*じつはあなたがたのわたしへのコメントは判を押したように同じなので、ひとつも読んでいない。
たぶん、一方的な非難や忠告だと思って斜め読みすらしないでスルーして、こうやって返事を書いている。
たぶん読まなくてもだいたいの内容は当たっているだろう。www

とにかくあなたがたは底抜けの低脳ばかりだ。
わたしがあなたがたのバランスの欠いた糞便以下の発言を読むとでも思っているのか?
だとしたら、クソの上にクソを重ねるような低脳だということですなあ。www

takasan [TypeKey Profile Page]:

>*じつはあなたがたのわたしへのコメントは判を押したように同じなので、ひとつも読んでいない。

なのにひとつひとつに反応。すんごい脳力ですね@@;

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

わたしは内田さんには、これからも、がんばってほしいとおもっているのですよ。
苦節うん十年。やっと陽の目をみたのじゃないですか。それをだれが邪魔なんかいたしますか。
わたしはいつでも内田先生の味方です。先生のご精進とご成功とお幸せを願う者のひとりです。

ただねえ、わかるんですよ。
はい。わかりすぎるほどわかるんです。お気持ちが。
内田さんの言論の支えになっているのは読者です。
いつも内田さんが内心こう呟いていることは痛いほどわかるんです。
「文句があるのならきみたちもわたしのように売れてみろ」
そうです。
読者に支持されたという絶対的な自信が内田さんの言論の裏付けになっています。
だれもそれを否定することはできません。
でもね。
だからといって、ちょっと舞い上がりすぎだと思うのです。
お気持ちはよくわかります。
苦節うん十年。やっと掴んだシアワセ。舞い上がる気持ちはわかります。
しかし、自信が過剰になりすぎると目が曇ります。行き過ぎに気づかなくなる。
弱者の存在が屁のように見える。何が弱者だ。わたしにはわたしを支持する数万の読者がついている。これが何よりわたしが正しいことの証明だ。
こうおっしゃりたくなるのでしょう。
この自信によって内田さん、あなたはやりすぎた。言い過ぎた。
ご自分のことだけでなく、売れていない他者、支持者のない他人、能力の無い人のことまで「規定」し「断定」しはじめた。
哀れといえば哀れ。
いままでが悲惨すぎましたものね、内田さん。
わたしは最近、マルクスの言った言葉は永遠の真実だということをはっきりと自覚しました。

 下部構造は上部構造を規定する

内田さん、あなたをみているとこの言葉が痛いほど鮮明に思い出されるのです。
どうか、いっときの成功に舞い上がらないで、自分を見失わないで、冷静な自己を取り戻してくださることをせつに願うものであります。
あなたは冷静さを取り戻せば今以上にすばらしい思想を展開する素質をお持ちだとわたしは信じております。
このまま、舞い上がったまま大切な人生を葬らないよう、お願い申し上げるしだいです。


kankan [TypeKey Profile Page]:

イカフライさん
このサイトが気に入らなければ来なければ良いんじゃないですか?
何故にわざわざ不愉快な思いをしに来るのか?

私はあなたを始めは不愉快に感じていたけど、最近は楽しみにしています。
非常に珍しい症例の患者さんなので。
今後も頑張ってください。奇天烈なコメント、楽しみにしていますね。

takasan [TypeKey Profile Page]:

いやあ、イカフライさん、手を変え品を変え、ためつすがめつ、いろいろな「出し物」がありますね。その調子、その調子。でも、ここでマルクスは…ねえ…。ちょっと引きました。でも、楽しませてもらってます。がんばろうね。(はあーと)

takasan [TypeKey Profile Page]:

あ、それからさイカフライさん。褒殺しってのはさ、「聴衆には褒め言葉、本人には批判に聞こえる」ものだとおもうんだけど、なんか最近のイカフライさんの発言は「聴衆には甘え、本人にはしなだれかかっている」ように思えるんだけど…疲れたの?

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

みなさん、わたしの名前を連呼されてないやら書かれていますが、悪いけど、読んでません。
はい。
ひとこと、断っておきます。
さて、内田さん、

内田さんのような突飛に頭の良すぎる方は孤独でいたほうがほんとうはいいものを書けるんですよ。
下手に本が売れたりするから、ヘンに自信をもっておかしくなることもある。
はたしてそのことがよかったのかどうか。
出版資本にとっては都合のよい知的消費材でしょう、内田さんという書き手は。
はたして十年後にはだれが名前を覚えているでしょうか?
もちろんわたしの心配することではない。
ただね、人間て怖いなと思うのですよ。間違って本が売れると自我の肥大に対処できないほどそれは強い力をもつ。
自分は他者から圧倒的に支持を受けているという想像が膨らみ、どんなことでもいえるような気になる。
これは麻薬のようなもので、いかなる批判も退けるオールマイティの魔法ですよ。
読者の支持。
しかしねえ、目が覚めたとき、はたして内田さん、あなた自分の愚かさに耐えられますか?
自分が舞い上がって、どれほどに弱者をないがしろにする発言を続けていたかに気づくとき。
ほとんど目を覆うほどの事態に遭遇するんじゃないのでしょうか?
それが心配です。

takasan [TypeKey Profile Page]:

いやあ、イカフライさん、相変わらす瞬時に手を変え品を変え、間髪入れずためつすがめつ、いろいろな「出し物」がありますね。ぐんぐん調子が上がってきているではないですか。座持ちがする?て言うのかな、こんな場合も。がんば。ずっと生暖かく見守ってます。(はあーと)

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

内田さんはたしか倫理学の教授でしたね。
しかし倫理と道徳は違う。

内田さんはいつも、人間とはかくかくしかじかのものであると「断定」し、人間はかくのごとくあらねばならないと「規定」する。
(もちろん「断定」や「規定」の押し付けがましさを正当化するのは、内田さんを支持する読者の存在ですが)

さてそのような断定や規定による抑圧は、はたして倫理であるのか。
こういうものについて日本には昔から最適の言葉がありますね。「道徳」といわれるものですよね。
倫理とは、そのように断定したり規定されるものではなく、まさしく「ためらいがちに」そっと提示されるものですわな。
内田さんのように「である」「である」の連続では「ためらい」とはいえない。

わたしはね、内田さん、あなたにいまいちど「ためらい」を取り戻していただきたいのですよ。
マッチョな言説はあまりにもあなたのうわべのデコレーション(おじさん、ためらい、などのキャッチコピー)とはマッチしない。

どうか、孤独のうちに他者を見出すような、真摯な心の動きを取り戻していただきたいものです。


takasan [TypeKey Profile Page]:

いやいやなかなか。相変わらす瞬時に手を変え品を変え、間髪入れずためつすがめつ、いろいろな「出し物」がありますね。ぐんぐん調子が上がってきているではないですか。座持ちがする?て言うのかな、こんな場合も。ずっと生暖かく見守ってます。いやあ、イカフライさん。(呼びかけると読まないらしいので、文末にもってきまちた)はあーと。

weezer [TypeKey Profile Page]:

さあさあみなさん、もっと普通のコメントが読みたいよ。

ビビらずに、思ってることを言葉にしておくれよ。

このコメント欄を正常化するのはあなたです。


イカフライ [TypeKey Profile Page]:

他者は「我が家」に混乱と不和と紛争と確執を引き起こす。他者との出会いとは、「我が家」という安定的な知解のシステムが解体し、私が絶対的な「単独者」として孤立するような経験である。というのも、到来した者の言葉は、私の理解や共感を越えているにもかかわらず、その理解できない言葉を、私はそれでもなお一個の「主体」として引き受け、聴き取らなければならないからである。この背理的な責任の引き受けを通して、はじめて「主体」は成立する。
             ためらいの倫理学293‐294

↑内田樹大先生は、自由の相互承認のみが公共的な正当性を導き出す唯一の方法であることを正しく認識しておられる。
知らないのは内田樹の「洟」のように青く垂れたネジのゆるんだ低脳たちの脳みそである。
ああ、このようなお粗末な自称「弟子」たちを持ち、このような青っ洟たちにコメント欄をかきまわされてなをかつ、主体の放棄をためらわずにはいられない大先生のお心のうちやいかに。
あははは。

Mr.変 [TypeKey Profile Page]:

こうなると、平均的な社会通念に対する傍若無人の許容量を測る目的の実践研究なのではないかとすら思えますね。

逆に言わせてもらえれば、不遇の生涯を送ってこられたから斯様に上目遣いの僻み根性に染まってしまうというような関連付けは軽率なように思います。
最終学歴という極めて部分的な事実だけ示してこうした振る舞いを続けることが、その部分的に同じ境遇にいる慎ましく日々を暮らす人たちを貶めかねないことはどのようにお考えでしょうか、メディアの犯す偏見の流布などにくらべれば極めて微力ではありましょうが、それが偏見を助長させているとは思いませんかね。

仮に彼の人が言うように彼の人の言動が妬み嫉み、あるいは憧憬の裏返しから発するものでないとするなら、吾人にはそれが理解できませんから、どの道耳は傾けてもらえません。

それと、批判が判を押したようにどれもこれも同じだから読むに価しないというのなら、内田さんにとってあなたのそれも同様でしょう。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

↑と、青っ洟が申しております。

yamamomo [TypeKey Profile Page]:

>こうなると、平均的な社会通念に対する傍若無人の許容量を測る目的の実践研究なのではないかとすら思えますね。


そっか、だから、
怯えてるの解ってて 名前の付いた 猫 喰うんだ
ふーん〜〜(T_T)