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休日なのでいろいろなことをする

お休みなのでひさしぶりに居合の稽古をする。
合気道の稽古の一環として、剣の術理についてともに考究しようではないかという趣旨の研究会である。
大会に出るとか、段位をとるとか、そういう現実的な目的抜きで、ただ淡々と操剣の理法について仮説を立て、実験をし、反証事例を吟味し、仮説を書き換える・・・という自然科学的なことをしているのである。
最初は数名ではじめた研究会であるが、いつのまにか人が増えて、今回は15人ほどが集まる。
80畳の道場ではあるが、体術と違って当たると怪我する刀を振り回すわけであるから、これくらいが人数の上限である。
初心者が数名いたので、また刀礼から。
稽古をしているうちに、またいろいろと「気づき」がある。
人間の仕事は剣に初期条件を与えることと停止させることだけである。
あとは剣が自分で最適動線を選んで進む。
人間はその動きの邪魔をしてはならない。
理屈は簡単だが、実際にやるのはむずかしい。
剣を意図的に操作しようとすると、剣勢が殺がれる。
剣を「置きに行く」というのがそれである。
身体を安定させておいて、剣だけを操作するとコントロールは効くが力のない剣になる。
むりに力を加えると、腕や肩の筋肉が痛くなるだけで、斬りの「冴え」は出ない。
では、人間の賢しらで剣を操ることを諦めて、「剣任せ」にすればよいかというと、そうでもない。
剣の操作を諦めると、剣は勢いよく飛んでゆくが、どこに行くかわからない(道場でやれば誰かに刺さる)。
あちらを立てればこちらが立たず。
韓非子に言う「矛盾」的事況となる。
現実的には、「ナカをとって」、初期条件を与えて、剣が動き出したらできるだけ関与せず、止めるときに「いきなり」止める、という技術を稽古することになる。
喩えて言うなら、アクセルを踏み込んで最高速になったところでがつんとブレーキをくれるような感じである。
自動車の場合であれば、セーフティベルトをしていないドライバーはフロントグラスを突き破って前方に飛び出す。
この「フロントグラスを突き破って前方に飛び出すもの」がいうところの「剣勢」である。
剣は止まるが、剣勢は止まらない。
剣だけ止めて、剣勢を止めないのが操剣の要諦である。
とりあえず仮説的には「そういうこと」にする。
剣を止めるときに腕の力で止めようとすれば、たちまち肘が破壊される。
それくらいのエネルギーを刃筋の通った剣は蔵している。
これを止めないといけない。
さて、どうするか。
剣を止めるには「爆発」させればよい、というのが私の仮説である。
「爆発」ということばから私たちは秩序のあるものが瓦解して、無秩序が到成する事態を想像するが、実際にはその逆であって、「爆発」というのは、「不安定な状態にある物質が、一気に安定を回復すること」なのである。
つまり、剣が運動しているときの不安定性を可能な限り高め、それが一気に安定状態になるときに生じる「爆発」のエネルギーをもって空を走る剣のエネルギーを制御するのである。
できるできないは別として、理屈としては筋が通っている。
というわけで、失礼ながら門人諸君の身体を使って、その仮説を実験してみる。
揺らぎと安定のセットを繰り返してもらう。
初期動作の設定をしたあとはできるだけ体を不安定な状態にして、いきなり安定させる。
はじめて剣を握った四人が驚いたことに1時間後には刃筋の通った斬りをし始めた。
「斬り手」と「止め手」という操作の意味がだいぶわかってきた。
どうやら、この仮説は「当たり」だったようである。
家に戻ってから『大人のロック』という雑誌から頼まれた「ペットサウンズ」についてのエッセイを書く。
「ペットサウンズ」の特集をするらしい。
先日、ジム・フジーリ(村上春樹訳)の『ペットサウンズ』の書評を書いたのが編集者の目にとまって、注文が来たのである。
村上春樹が『意味がなければスイングがない』にすばらしいブライアン・ウィルソン論を書いているので、私もちょっと書きたくなった。
「僕はビーチ・ボーイズを最初に聴いた日のことを覚えていない」という書き出しの一行を思いついたら、あとはすらすらと1200字書けた。
仕事が終わったので、三宮に買い物に出かける。
『先生はえらい』が重版したので、そのお祝いである(これで累計43000部)。
大丸へ行ってコルネリアーニの夏のスーツとポロシャツとワイシャツを買う。
昇りのエスカレーターで下りのエスカレーターに乗った元・美人聴講生のエダくんとすれ違う。
「せんせ~」「おお、元気か~」と生き別れ。
続いて東急ハンズに行き、マニフレックスのベッドとマットレスを買う。
買い物モードに入ってしまったので、座椅子(麻雀用)と電動のコーヒーミルを衝動買いする。
門でとんかつ定食を食べて、ビールを飲む。
美味なり。
家に帰ってワイン片手にアルモドバルのTalk to her を見る。
この間学生に「先生、これ見ました?」と訊かれて、「いや、まだ見てないの」と答えた映画であるが、見始めてしばらくしたら一度見た映画であることを思い出した。
でも、どういう結末だったかまったく覚えていない(泥酔状態で見たため)ので、最後までどきどきしながら見る。
得をしたような気もするし、損をしたような気もするし、よくわからない。


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コメント (11)

茶々 [TypeKey Profile Page]:

最終回(完全版#2)『愚よ愚よ汝をイカに戦記』by 茶々 (あらかじめご注意申し上げておきますが、ここは本当に危険ですので、しばらくの間、私以外の方は書き込みをしないでください。その理由を知りたい方は、宮崎駿のコミック版『風の谷のナウシカ』第7巻をどうぞ!)

え? もう終わりかよ。うん。あんだけ引っぱっといて、ナンダヨー。まっ、最終回ですべての謎が解けますからご安心を... ふふふ。ところで、最終回のお楽しみの「答え」は、『わかりません』でした。えええええええええ! 何それぇ?!  いわゆる「ひっかけ問題」ってやつですね。『すみません』でした。つまりー、

すでに啓蒙されている虚偽意識であるシニシズムには、説得という「知」による教化は不可能なんです。なぜなら虚偽(嘘)だとわかっていて、わざとやっているのがシニシズムだからです。「そんなことはわかっていてやっているんだよ」っていうのが「I.H」さんのポリシーなんですね。だから主観的には「I.H」さんには「知らないことはない」。なぜなら全部「わかっていて、計算の上でやっている」ことだからです。たとえ不意を討たれるようにして未知に出会ったとしても、「I.H」さんは事後的に必ず「そんなことは知っていたよ。わかっていてわざとやっていたんだ」と負け惜しみを言うのです。未知は許せないのですね。それが自分の設計、計画、計略にないからであり、「I.H」さんは、自分の行動を全てコントールして、知っててすべてわかっていてやりたいことだからです。つまりもう十分人生に裏切られていて、これ以上予想外のマイナス情報に傷つきたくないっていうのが「I.H」さんの偽らざる本音であり、人生において想定外のことに出会うと、そんなことは最初から知っていたよと「事後的に」虚偽の予防線を張ることで、自分は安全であると思い込みたいのです。なぜなら自分の支配が及んでいるところは安全であり、それゆえ「支配欲」の頑さの固まりになるのです。

原理原則というものから演繹的に、また既知の情報から帰納的にすべての真理という英知を引き出して、世界を隅々まで自分の知の支配の及んだ「想像的世界」を構築しようとする一種のマッドサイエンティストになってしまっている「I.H」さんは、オリジナルである主体(=No.1である存在)であり続けようと常に先手を取ろうとすることで、かえって後手後手を踏み続けることになるのですが、たとえそうだとしても、すべてを知っていると想定された訓導すべき〈師〉であることが理想我である主体にとっては、主観的には先手を取られることがあってはならないのです。ですから、たとえ先手を取られて「しまった」と思っても、必ずそんなことはわかっていたよ、とその先行するテクストを反駁し解体し、他者の先行性を無化しようとするのです。そしてその負け(=後背性)を認めようとしない頑さが、つまり頭のネジがゆるまないようにゆるまないようにと、原理的・原則的に締め付け過ぎることが、逆に「I.H」さんの知性から「遊び(=グルーチョ・マルクス的な自虐的諧謔を可能にする自我よりももう一段メタな視点)」というものを奪ってしまい、結果的に「I.H」さんから創造性(=オリジナリティ=先行性)を欠落させてしまうことになるのです。批判に拘泥する二次的知性(リアクション)と、創造してゆく一次的知性(ファースト・アクション)の違いです。

つまるところ「I.H」さんは、未知をひたすら既知に還元しようとする双数的母子鏡像関係にあって、先に教えてもらいながら、相手をしてもらいながら、あやしてもらいながら、おっぱいをもらいながら、テクストを生産してもらいながら、考えるヒントを提示して貰いながら、それを受けてそれを解体しそれを批判しそれを脱構築し、尚かつ No.1である男性性(=ファルス)の示威を行おうとしているということなのです。基本的に母子双数関係にある鏡像段階の〈男の子〉のファルスは「皮被りのファルス」です。つまり「I.H」さんのテクストの批判性(=攻撃性)は、「短小包茎」をおったてたガキ(餓鬼)同然であり、それ故たとえ想像界の〈母〉にそのテクストのヴォイスが届いたとしても、現実界の〈他者〉には届かず、それで満たされない、受け止めてもらえない欲望を抱えたままの欲求不満の塊になってしまうというわけなのです。「I.H」さんが想像界の住人であるが故に、現実界を支配する大人の男性の前では塩らしくならざるを得ず、未だ外の現実界(外気)に曝されていない弱い皮膚をもつ〈子供〉の「皮被りのファルス」の持ち主である「I.H」さんが攻撃的になれるのは、実に想像界の住人である「弱きもの」「女性的なもの」の前だけなのです。本質的に内弁慶なのですね。それが、ネット界の想像界的なヴァーチャルな空間では全能感を誇る帝王気取りでいられても、現実界では実名の暴露を恐れる「I.H」さんの打たれ弱さの原因ともなっているのです。『女子と小人は養い難し』という言葉や「女子供」という言葉があるように、〈子供〉とは本来〈女性〉的な存在です。鏡像段階的双数関係にある者は、基本的に「体面=対面」を非常に気にします。「体面」とはまさしく鏡像的双数関係にある相対的存在の二者の間の境界線、すなわち鏡像を写し出す鏡面そのものだからです。両者の領域・テリトリーの境界面である「体面」こそが、自己の想像的イメージの死守すべき国境線(=支配権の及ぶところの監視の視線の地平線)にあたるのです。


我らが老師がいつもおっしゃっておられるように、「謎」を追うものは必ず〈弟子〉=〈子供〉の立ち位置(=ビハインド・敗勢)に嵌ることになります。しかしながら、『述べて作らず』という〈弟子〉の〈師〉への正しい態度・位置取り・敬意を示せない者は、本質的に後追いの敗勢にありながら、すべてを知っていると想定された〈師〉の立ち位置を先取しようとします。テクストを産出してもらいながら、情報を教えてもらいながら、それに寄りかかりかつ甘えながら、それでも決してその敗北(後背性)を認めようとはしないのです。それを認めると、理想我であるところの「すべてを知っていると想定された〈師〉」としての自我構造(=万能感・全能感)を断念しなければならないからです。それまでの甘い母子双数関係性の揺り籠の中で培われて来た、自分の弱い想像界的自我を構成している全努力の積み重ねのすべて失ってしまう恐れを抱くからです。本当は古い殻を捨てなければ、新しいステージでの成長もまたありえないのですが、三者的な象徴段階への「命がけの跳躍」が「I.H」さんにとってはとても怖いらしいのです。外の世界の現実にもう十分過ぎるくらい十二分に傷ついているからでしょうか。皮を被ったままの〈子供〉のファルスが外気に曝されるときの〈他者〉の視線の「冷ややかさ」に耐えられないからでしょうか。齢六十になんなんとする「I.H」さんが、想像界的な甘い世界でのみ十全な発現を許された万能の自我を夢み過ぎたからでしょうか。甘えん坊の「マザコン」(おかあさんっ子)であり、「シスコン」(おねえさんっ子)だからでしょうか。

それはともかく、「I.H」さんは規範的であろうとし過ぎたせいで、つまり頭のネジを締め付け過ぎたせいで、かえってネジが切れてゆるんで、それでテクストの捻りが1/4回転になってしまい意味の取れないテクストを大量生産することになりました。「I.H」さんにとっては十分捻りを利かせた味の有る文章のつもりなのですが、たぶん本人以外には誰もその諧謔性が理解出来ない。何処がどう面白いのか〈他者〉にとってはさっぱりわからないのです。もともと自我の中に〈他者〉がいないから、そこには主観性だけがあって客観性がないからです。一方「うっかり系」の人は文章を捻り過ぎて、一回転して元へ戻ってしまっているのですが(いまどきエイプリル・フールなんか生真面目にやるかよー。そーゆーところが「うっかり」なんだよな。ったく)、捻りというものはちょうど「真半分」が両義的であり、「判じ絵」と同じく、老婆にも若い女にも、アヒルにもウサギにも、どっちにも見えるものなのです。ひとによっては、そこに自分の見たいものを見ることが出来る。鏡像的想像界にいる者は結局すべてそういうものなのです。母子関係性の幸福な揺り籠もそうですし、アイドルとファンの関係性もまたそうです。恋愛初期の恋人同士もまたそうであり、両者ともが互いに自分が見たいものを相手の中に見る。つまり「判じ絵」を見るものは、もう「見るな」の禁制を破っているのです。ひたすら知的でありたいと思うものは、すべてその「罠」にはまります。パラドックスとは論理的な「判じ絵」です。

鏡像段階に在る者の秘密を知りたければ、両義的な問題を投げかけてカマをかけさえすれば必ず見たいものを、本人がそう思いたいものをそこに見い出すことが出来ます。こっちが「謎」をかけると、本人が知っていることを先にしゃべってしまうのです。それは本人のアイデンティティであるところの「主体性」が「すべてを知っていて、すべてをコントロールしている主体」であり、自分の行動はあらかじめわかってやっていたこと、すべて想定内のことのはずだからです。こっちが知りたいことを知っている振りをして、思わせぶりに「問い」を投げかけるだけで、「そんなことは知っていたよ」と、ぽろっと自ら告白してしまうのですね。「I.H」さんにしてみれば、規範的に全てを知っていてやったことでなければならないので、本人自身でさえ知らなかったことを、つまり自分の無意識の世界のことを、本人が一番隠しておきたかった個人の秘密まで、結果的にべらべらと人前に暴露しまうことになるのです。あらかじめ「自分は知っていた」ということを、顕示しなくてはならないからです。つまりゲロ吐いてしまうのですね(うっ、トラウマ体験が... )。両義的な曖昧な問いというものは、双数的鏡像段階にある者にとっての「鏡」となり、相手の姿を映してしまうものなのです。両義的な問いで我々が鏡に映し出そうとするものは相手の真の姿であり、その鏡に映っている虚像とは、「I.H」さんは知っているけれど我々が知らなかったことです。この場合は、我々が知りたかったのは相手の本名(これは「I.H」さんは知っていたことですが、我々が知らなかったこと、「I.H」さんが我々には隠しておきたかったこと)です。一方で我々は「I.H」さんを過去時制の捕囚にしているトラウマや魂の真実を知っていますが、これは「I.H」さんが意識的には「知らない」ことであり、また「知りたくない」ことです。

ではなぜそんなにも簡単に、「I.H」さんは我々の投げかける「問い」に引っかかってしまうのか。それは「I.H」さんの「理想我」が全てを知っていると想定された主体だからです。先の先をとろうとして、事後的に後手後手を踏み続ける。「I.H」さんが本質的に、わかっていること(先行して投げかけられている既存の枠組みである謎や物語というコンテクスト・文脈)の後追いしか出来ないからです。一般に普通の人は、自分自身の内面の真理や無意識の真実、あるいは魂の秘密を、つまり自分の行動の本当の動機を内省という形で「知る」ことが出来ます。反省とか自制とか自省という形でです。それが成熟した大人のあり方であることは、言うまでもないことですが、しかしながら、自我を隔壁で多重人格という〈仮称〉(=仮の二次的構築物・ヴァーチャルな存在)に分割している「I.H」さんにはそれが出来ない。深刻な(貴重な)経験が体験にならないでいるから、「人格」という形で統合された自分史に登録されないでいるのです。それで「I.H」さんの秘密は「I.H」さんの記憶や心の中ではなく、「I.H」さんの書くテクスト、「I.H」さんが創造し自分を仮託したキャラ(二次的パーソナリティ)というアヴァターが演じるところの、自作自演の登場人物の台詞の中に文字通りスクリプトという形で現れるのです。驚きに出会ったら素直に驚き、未知を既存のフレームワークの中の既知に回収せず、驚きを驚きのままにしておく「センス・オブ・ワンダー」があれば、こんなことにはならずに済んだのですが、あらゆるキャラを思い通りに動かすシナリオ・ライター兼演出家であろうとしている「I.H」さんにしてみれば、すべてを知っていると想定された主体、すなわち全知全能の神に自身を準えているのですから、神秘というものがこの世から消えてしまって、現実というものに退屈してこんなことにしか熱中出来ないのも当然と言えば当然です。お可哀想ですね。哀れむべき悲しい獣です。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

このオッサンが剣の話をするたびに、つくづく馬鹿なやつだなあとおもう。

ふれむで [TypeKey Profile Page]:

如何せん 蹴鞠に集う 花日和

しー [TypeKey Profile Page]:

内田先生、こんばんは。
身体作法は言葉で説明・理解するのはなかなか難しいですね。

>喩えて言うなら、アクセルを踏み込んで最高速になったところでがつんとブレーキをくれるような感じである。
自動車の場合であれば、セーフティベルトをしていないドライバーはフロントグラスを突き破って前方に飛び出す。

私、昔から自転車が好きなのですが、最近、若い人の間で「ピストバイク」とよばれる自転車が流行っている(らしい)のをご存知ですか?
アメリカの西海岸では「トラックバイク」という名で流行して、それが日本に入ってきたそうなのですが、競輪選手が乗るような、車輪とギアが固定されているものを指します。普通の自転車は走行中にペダルをこぐ脚を止めても、後輪は空回りしてくれるので自転車は止まりませんが、ピストバイクは脚を止めると自転車も「暴力的に」止まります。
慣れない人がいきなり乗るのは危ないですが、止まり方のみならず走り出したときの自転車との一体感も、はじめてのひとなら思わず声が出ます。
剣の扱いも人が道具を扱うように、ではなく剣と一体となることが重要であるようなことを以前おっしゃっていたような気がするのですが、今日のエントリではピストバイクのことを思わず連想してしまいました。
先生も一度体験されてはいかが?それとももうご存知でしょうか?

>門でとんかつ定食を食べて、ビールを飲む。
美味なり。

「もん」ですね。なつかしいなあ〜、というか、先生、元気ですねえ。私は一口カツ定食やオムライスを食べたことを思い出しますが、とんかつにはずいぶんご無沙汰してます。ここはお店の雰囲気もいいですね。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

このオッサンが剣の話を哲学風にするたびに、つくづく馬鹿なやつだなあとおもう。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

>このオッサンが剣の話を哲学風にするたびに、つくづく馬鹿なやつだなあとおもう。

とコメントしたら、「それでは批判になってない」という意見があった。
じつは内田さんがこのコメントの意味を一番よくご存知だと思って、武士の情け、これ以上の深追いをしなかった。
自分がいかに空語を弄び、一般には武道なるものに馴染みのない素人をたぶらかしているか。
ご自分が一番よくご存知だと思う。

まず居合い術、居合いとは何か。
一言で言うと、《①何も考えずに②真剣を一閃させて③相手を殺す技術》のことです。
本来はね。
これがいまのようなお茶、お華の類の儀式化されたものになったとしても本質は変わらない。

もう少し詳しく説明しましょう。
①の「何も考えずに」というのが居合いの重要な要素です。
居合いの段持ちになると、一歩、二歩、三歩と相手にすぃーっと近づいて、四歩目には斬ることができる。
真剣ですから、これはほんとうに斬殺するということです。
もちろんこのときは「何も考えていない」。そういう心境だからこそ斬れる。
そこへもってゆく心的技術がまずひとつ。

②の「刀を一閃させて」というのがミソだ。
居合いは刀の切っ先と鞘の柄口を支点として力を蓄え、それを一挙に解放して、乱れの無い円弧とスピードを取り出す技です。
これは両手で刀を握って上段から振りかぶると、左右の腕や肩の力のアンバランスで力が分散したり、振り下ろす刀の軌跡がぶれたりするのとは逆に、じつに合理的だ。

③の「相手を一撃で斬殺する」ということ。これが居合い術の目的です。
つまり一撃必殺を宿命つけられた刀術なわけです。だから居合いでは必ず真剣を使う。

さて、内田さんが居合いについてさまざまなことをおっしゃられるのは結構ですが、あなた人を斬ったことがあるのですか?
居合い術は人を斬ってはじめて、一連の動きが完遂されるのですがねえ。
相手の骨に当たった感触、相手の筋肉が収縮して刀を押さえ込み、それを抜くために両手で柄を握り、左足で踏ん張って右足で思い切り相手を向こうへ蹴り飛ばす。
そうやって刀を抜く。
これら一連の動きを体得して初めて居合いとは何かがいえるはず。
人を斬ったこともないのに、居合いがあーだ、こーだということが、妄語、空語だといったのはじつはこういうことだからです。

もちろん人を斬ることはできません。
しかし居合いとは「何も考えずに刀を一閃させ相手を殺す」技術なんです。
人も斬らないで居合いはあーだ、こーだといっているのは、
セックスで射精もしないで童貞のガキが年増女をこうやって、こうして、こうやってイカセテやったと自慢しているのと同じ、幼稚なことじゃないでしょうか?

たとえが下品になりましたが、内田センセーのお弟子さんがたの下品さに影響されたのかもしれませんねえ。

内田さん、居合いなどというものが一般的に知られていないからといって、言いたい放題てのは如何なものでしょうか?
武道はまず体得があって、体得したものをあとから、記述できるものではないでしょうか?
体得のまえに、本質を記述できるようなものではないと思いますがねえ、へえ。

ブルー [TypeKey Profile Page]:

あまり指摘されることがないように思うのですが、ここ30年くらいの間に、日本文化におけるアスリート観が驚くほど大きく変化してきたという印象を僕は抱いています。僕が子どもの頃、スポーツというのは「ド根性のあるバカ」がやることでした。僕自身も面と向かって「運動バカ」と呼ばれたことがあります(たぶん好意的に)。しかし、ここ10年くらいの間に世界的な活躍をした日本人アスリートの中に、かつての「運動バカ・イメージ」に合致する選手を見つけることは困難です。イチロー、中田、室伏、為末、上村愛子、高橋尚子、など。彼らに共通することは、自分の獲得してきた技術の合理性や日々のトレーニングの意図を相当に精密に言語化する能力を持っているということです。表情や語り口に知性がみなぎっている。これはおそらく彼らが本当に「言葉の先」を目指しているからではないかと僕は推測しています。真に言語化不能な領域に入っていくためには、逆説的ですが、言語化可能な領域はさっさと言語化してクリアしていかなければならない。かつての「運動バカ」が「言葉じゃねーんだよ」と豪語していた事柄のかなりの部分は実は言語によるコントロールが充分に可能な領域にあって、しかし彼らはその領域で既に安易に偶然性に身を任せてしまったがために決して「その先」に到達することができなかった、ということだと僕は思う。内田さんがときどき披露してくれる「武道の言語化」が僕は大好きです。今回は特に「爆発によって剣を止める」というところがすごく面白かった。言語の持つ「論理性」と「イメージ性」がフルに発揮されている感じですね。

誤読しらず [TypeKey Profile Page]:

>体得のまえに、本質を記述できるようなものではないと思います

と書く人は、「体得のまえに、本質を記述でき」たつもりになっていますか? 何故なんでしょうね?(ニッコリ)

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

内田さん、いくら立派なことを書いても、以下のようなデタラメを「弟子」に書かせる師匠ではどうかなとおもいます。
前回のわたしが東本願寺の僧侶であるという思い込みからの東本願寺電話攻勢を内田さんは
このブログで容認されたわけですが、今回はさすがに、
ここまでやられると、むしろ呆れてなにも反論もしたくない思いです。
しかし内田せんせー、いいお弟子さんばかりが集まりますねえ。
誹謗中傷、脅迫、いかにもらしい作り話のでっち上げ。これが内田ファンの傾向性ならばどうもセンセーの精神にも問題があるのではないでしょうか?
みなさまに、いかにものすごいことをセンセーの弟子が書くかよーくみてもらいましょう。
キチガイのタワゴトにしては真に迫っています。

> 京都の孤児院『積慶園』を出て東京では十六歳からホームレスを続け、挙句、盗みに入って逮捕。
> 京都に押送され、泉州にあった『和泉少年院』に半年。
> しかし、知人も親戚も親もないわたしは東京に出てまたすぐに就職したばかりのトルコ風呂にて
> 両替を頼まれたのを着服して逃げ、横領と、前回あった保釈の窃盗とで栃木の赤羽刑務所に三年服役。
> それ以後は犯罪には縁がなかったものの、東京では田舎出の世間知らずの女の子のヒモになり、その子を
> 毎日キャバレーに働かせて自分は遊んでいた。愛情など一切なかった。
> その子が子供をおろしたのを機にその娘をクズ紙のように捨てて13年前に大阪に逃げてきた。
> その後は釜ヶ崎のホームレス無料宿泊所にお世話になり、そこの責任者が死んだのをいいことに
> そのまま居ついている。
> 最近になって子供をおろしたその子に会おうと思ったが病気をこじらして郷里の対馬に帰ったきり消息も知れない。

ポール [TypeKey Profile Page]:

ブルーさま
>かつての「運動バカ」が「言葉じゃねーんだよ」と豪語していた事柄のかなりの部分は実は言語によるコントロールが充分に可能な領域にあって

全くの運動音痴ですが激しく同意します
小学校1年の担任の女教師に
「運動神経が鈍い」と通知表に書かれて以来の運動音痴です。
短距離走では「呼吸をしないで走る」とか、誰も教えてくれなかったですよ。
我が子に逆上がりとか自転車を教えるに当たって、前者は重心移動のイメージとか後者は「緩い下り坂を補助者は乗るも人の肩に軽く手を添えて」とかちょっと「言語化」してくれればいいじゃないか?
と思います。
「通信教育で空手を習った」とか、矢吹丈に丹下団平のおっちゃんが手紙でボクシングを教えたとか、
「ギャグ」ではなくて本当のことだと思いますよ。

ブルー [TypeKey Profile Page]:

ポールさん、ありがとうございます。同意して頂いて嬉しいです。僕はごく平凡な運動神経の持ち主でありながら学生時代のほぼすべてを運動部で過ごしたので、才能のある連中となんとか渡り合うために、自分のどんくさい身体をガイドする「言葉の力」と、それを安定的に実現するための「反復練習」と、あと、誰でも鍛えることのできる「筋力」には大変お世話になりました。また、それと同時に、もし「意識による身体制御こそがスポーツの本質である」と開き直ってしまったら、自分はおそらく二度と天才たちと渡り合うことはできないだろうということもなんとなく認識していました。

ポールさんの挙げて下さった鉄棒技術の言語化などの例を読みながら、これは体育よりもむしろ国語の授業(より正確には「言語」の授業)で有効な指導方法かもしれないなと思いました。自分の身体を言葉で制御できたという経験ほど「自然を制御する道具」としての言語の本質を人に痛感させるものはないと思います。そしてもし、その先の、言葉が無力になってしまう領域まで生徒に垣間見せることに成功したなら、言語教育としては理想ではないだろうか。

僕は内田さんの『先生はえらい』の「教習所とFー1ドライバー」の章に不満があって、教習所の「ヤマダ先生」が実は「定量的な技術」と「技術は定量的なものではないということ」の両方を伝えることのできるスーパー教師であり得る可能性を示して欲しかったと思っています。大学の教師の仕事は後者が主であるべきかもしれないけど、小・中・高の先生方の中には、両方を達成できる教師になろうと努力している人も多いと思う。しかも、両者を対立概念として併記するというよりも、むしろひとつのこととして伝える。つまり、ある制限の中で「定量化された技術」が極めて有効に機能することを体感させながら、同時に、その制限の外に広がる無限の地平へと生徒が自然に目を向け始めるというような教え方があり得るのではないか。そういう「地道さ」と「飛躍」の両方を実現する教育により近いのはシューマッハよりもヤマダ先生であるような気が僕はしました。もちろん、内田さんが「教える」ということの二つの面を分かりやすく分節してくれたからこそ、僕はこんなふうに考えることができるようになったわけで、感謝していることに変わりはありませんが。

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2008年04月30日 10:28 に投稿されたエントリーのページです。

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